社会主義リアリズム - 革命的ロマン主義
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「ルイ・アラゴン」の記事における「社会主義リアリズム - 革命的ロマン主義」の解説
1934年に、主に1932年のソ連滞在中に書かれた詩を『ウラル万才』として発表した。表題作「ウラル万才」は「重要なのは世界を変えることである」というマルクスの言葉で結ばれている。1934年には小説『バーゼルの鐘』も発表された。クララ・ツェトキンを新しい女性像として描いたこの小説は、アラゴンの社会主義リアリズム五部作『現実世界』の第一作であり、この後、『お屋敷町』、『二階馬車の乗客たち』、『オーレリアン』、および戦後に『レ・コミュニスト』全6巻が刊行されることになる。『お屋敷町』は1936年ルノードー賞を受賞した。また、これらの作品は、妻エルザ・トリオレに捧げられ、「私が今日あるは彼女のお蔭であり、私が懐疑と絶望の底から、生死を賭けるに足る「現実世界」の入口を見出すことのできたのも、彼女のお蔭である」と書かれている。 1935年に刊行された『社会主義レアリスムのために』は講演集であり、パリ文化会館での講演「アルフレッド・ド・ヴィニーからアヴデエンコへ ― ソビエトの作家」、1935年4月にニューヨークで開催された「ジョン・リード・クラブ大会へのメッセージ」、反戦・反ファシズムを掲げた文化擁護国際作家会議での講演「現実に帰れ」などが含まれる。アラゴンの社会主義リアリズムは、ソ連の社会主義リアリズムをフランス文学の伝統につなげようとする試みであり、「(エミール・ゾラの)『ジェルミナール』と(ヴィクトル・ユーゴーの)『懲罰詩集』が一体となった」ような「革命的ロマン主義」と定義している。第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)は1935年6月にパリで開催され、アラゴンはイリヤ・エレンブルグの協力を得て事務局を務めた。ソ連からはエレンブルグのほかイサーク・バーベリ、ドイツからはハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアからローベルト・ムージル、英国からオルダス・ハクスリーらが参加した。第2回はスペインで開催され、第3回は1937年に再びパリで行われた。これらの講演は「文化擁護国際作家協会」叢書としてドノエル出版社(フランス語版)から刊行された。なお、第1回文化擁護国際作家会議ではエレンブルグと対立したブルトンが同会議から追放されるなど、スターリンのソ連を支持する共産主義者らとシュルレアリストらの決別が決定的なものとなった。 1936年から1938年にかけて行われたモスクワ裁判(スターリンの大粛清)について、アラゴンは『コミューン』誌上でこれを正当化しているが、この事件に「動揺しなかったわけではない」とされる。義姉リーリャ・ブリークの愛人プリマコフも1937年に銃殺刑に処されたが、彼の有罪を信じていたわけではなく、また、ジャック・デュクロ(フランス語版)との対談でモスクワ裁判の話になったときにも、公言を避けていた。とはいえ、これについては当時の他の左派知識人も同様で、1934年2月6日の危機への抗議として結成された反ファシズム知識人監視委員会もモスクワ裁判はもとより、ソ連の共産主義に対してすら公に立場を表明していない。
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