白人による虐殺
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1609年11月、ジョン・ラトクリフ船長がポウハタン連邦の新しい村オラパケスに招かれた。ラトクリフがそこで交易するためにパムンキー川を遡っていくと、入植白人とポウハタン族との間に戦闘が始まった。岸に上がっていたイギリス人全てが殺されたが、この中には部族の女性に拷問されたラトクリフも入っていた。ピンネース船にのっていた者達が脱出し、その話をジェームズタウンに伝えた。 次の年の間に、ポウハタン族はジェームズタウンの住人を襲い、多くを殺した。住民も反撃したが20人を殺したに過ぎなかった。しかし、1610年6月にジェームズタウンに新しい総督第3代デ・ラ・ウェア男爵トマス・ウェスト(現代ではデラウェア卿として知られる)が到着し、「第一次アングロ・ポウハタン戦争」を始めた。 白人たちは、ポウハタン酋長の娘ポカホンタスを、交渉の人質として拉致し、一年にわたり監禁した。白人たちはポウハタン酋長を部族の支配者だと思い込んでいるから、その娘を人質とし、脅迫すればインディアンたちは従うだろうと白人の流儀で考えたのである。侵略者たちはポウハタン族とポウハタン酋長に対して、捕虜の返還や武装解除、食糧(トウモロコシ)を要求した。白人が本当に彼らと和平を結びたいなら、「ロングハウス」の「会議の火」の周りで「大いなる神秘」のもと「聖なるパイプ」で煙草を回し飲みし、贈り物を交換し、合議のもとでこれを行うのが筋である。武力で脅迫してもインディアンは反発するだけである。 拉致監禁されたポカホンタスはキリスト教の洗礼を受けさせられ、タバコ農園主のジョン・ロルフと、釈放を引き換え条件に1614年に結婚した。調停者であるポウハタン酋長と白人が縁組したことで、ほんのわずかな間、インディアンと白人に平和な時期が生まれた。 しかし、数年のうちにワフンスナコック酋長とポカホンタスが病気で死んだ。酋長はバージニアで死んだが、ポカホンタスは植民地プロパガンダのためにロンドンに連行され向こうで死んだ。一方、イギリス人入植者達は再びポウハタン族領地の侵略を続けていた。 1618年にワフンスナコックが死んだ後、弟であるオペチャンカナウ酋長(以前、スミスに銃で脅迫されている)は入植者と敵対姿勢を強めた。オペチャンカナウたちは白人を追い出そうと1622年と1636年に「ジェームズタウンの虐殺」を行った。これらの試みはイギリス人からの強力な反撃に遭い、結局は部族自体が虐殺されることとなった。ポウハタン連邦は1646年までに大半が破壊された。イギリス植民地の拡大が続き、それまでの白人に加えて黒人奴隷の数も増加し、特に17世紀半ばまでの期間には、彼らの中で年季奉公としての期間を経て自由を獲得した解放奴隷たちによって、さらにポウハタンの土地が侵されていった。 1644年の「第二次アングロ・ポウハタン戦争」で、バージニア総督ウィリアム・バークリーの軍隊が、齢90ないし100と見られる老オペチャンカナウを捕えた。オペチャンカナウは捕虜となり、護衛役の白人兵士から背中を撃たれて殺された。 白人たちは酋長を「反乱の指導者」だと思い込んでいるから、この老調停者を捉え、命まで奪ったのである。 オペチャンカナウの死後はネクトワンスが酋長(調停者)を継ぎ、その後トトポトモイ、さらに後にはその娘のコッカコースケが継いだ。1665年までに、ポウハタン族はその年に法制化された白人の厳格な法律に従わせられることとなり、総督に指名される酋長を受け入れることを強いられた。 インディアンの酋長は誰かに指名されたり選ばれる類のものではない。侵略者たちは、インディアンの酋長を首長だと勘違いしているのである。白人から「この者を酋長(ピースメーカー)に選んだから、この者に従え」と言われても、インディアンが納得できるはずがなかった。 1676年のベイコンの反乱の間に、ナサニエル・ベイコンによって捕獲したインディアンが奴隷化された。インディアンの奴隷制はそのわずか15年後にあたる1691年にバージニア植民地議会によって公式に廃止された。しかし、多くのポウハタン族は18世紀に入るまで奴隷状態におかれた。残るポウハタン族は白人や黒人入植者に同化する者もいた。1684年のオールバニ条約の後では、ポウハタン連邦全てが消滅した。 ポウハタン連邦が存在しなくなってから長年が経過して、その地域の西数マイルの地は、ポカホンタスの父ワフンスナコック酋長の栄誉を称えて、バージニア植民地の中のポウハタン郡と命名された。 民主主義社会であるポウハタン族は、君主制社会であるイギリス白人に破壊され、征服された。 ポカホンタスはイギリス人入植者ジョン・ロルフと結婚し、息子トーマス・ロルフを生んだが、トーマスはロルフの実の子供ではない。実際の父親は、ロルフの上司のトーマス・デール卿と見られている。バージニアの入植者の子孫の多くが、インディアンとヨーロッパ人の双方にそのルーツを辿ることができる。
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