白人の探検と定住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/22 10:19 UTC 版)
「ブライスキャニオン国立公園」の記事における「白人の探検と定住」の解説
最初の白人が人里離れた行きにくい場所を探検したのは、18世紀後半から19世紀前半にかけてのことだった。モルモン開拓者が、1850年代に農業開発、放牧地としての利用、定住の可能性を評価するため、この地を訪れた。 この地への最初の大規模な科学探検は、1872年にアメリカ陸軍少佐ジョン・ウェズリー・パウエル(John Wesley Powell)に率いられて行われた。パウエルと地図製作者、地質学者のチームは、コロラド高原の広範な調査の一部として、スヴィア川(Sevier River)とヴァージン川(Virgin River)地域を調査した。地図製作者達は、パイユート族の地名の多くを記録した。 モルモン開拓者の小集団がこれに続き、パリア川沿いのブライス・キャニオンの東に定住しようとした。1873年、カナラ・キャトル・カンパニー(Kanarra Cattle Company)は家畜の放牧のための利用を始めた。 末日聖徒イエス・キリスト教会は、スコットランド系の移民エベニーザー・ブライスとその妻メアリーを、彼の大工としての技能がその地で役立つと考えパリア谷に定住させようと送り込んだ。ブライスの家族は、ブライス・キャニオン・アンフィテアトルムのすぐ下に住むことを選んだ。ブライスは、家畜を現在の公園の境界の内側に放牧し、通説ではアンフィテアトルムを「雌牛を失うひどい場所」("helluva place to lose a cow")と考えた。彼はまた薪と木材を集めるため高原までの道を造り、作物に水をまき家畜に水をやるために用水路を引いた。他の開拓者達は間もなくその変わった場所を「ブライスの谷」("Bryce's canyon")と呼び始め、後に正式にブライス・キャニオンと呼称された。 旱魃、過放牧、洪水が重なり、結局残っていたパイユート族はこの地を去り、開拓者はスヴィア川からの用水路を建設しようという試みに駆り立てられた。その努力が失敗したとき、ブライスの家族を含め開拓者のほとんどがこの地を去った。ブライスは家族と共に1880年、アリゾナ州に引っ越した。残った開拓者達は、スヴィア川の東支流からトロピック・ヴァレー(Tropic Valley)へ長さ 16 km(10 マイル)の水路をなんとか掘り抜いた。
※この「白人の探検と定住」の解説は、「ブライスキャニオン国立公園」の解説の一部です。
「白人の探検と定住」を含む「ブライスキャニオン国立公園」の記事については、「ブライスキャニオン国立公園」の概要を参照ください。
- 白人の探検と定住のページへのリンク