狭山藩主家以外の後北条氏とは? わかりやすく解説

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狭山藩主家以外の後北条氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:23 UTC 版)

後北条氏」の記事における「狭山藩主家以外の後北条氏」の解説

傍系北条綱成の子孫で鎌倉衆を束ねていた氏勝があり、彼は小田原征伐の際に守城の玉縄城開城降伏し以後徳川家康家臣として仕え家康関東入国後には岩富1万石を与えられていた。これが江戸時代前期譜代大名岩富藩となっている。保科氏から迎えた養子氏重が後を継ぎ下野富田藩遠江久野藩下総関宿藩駿河田中藩遠江掛川藩加増移封され、最大で3万石領するようになったが、彼の死後に無嗣廃絶となっている。 氏勝の甥にあたる氏長北条流兵学創始者となり、幕臣として大目付まで出世し5000石の大身旗本となった。 氏直の弟の直重は、千葉邦胤養子となって千葉直重名乗っていた。小田原征伐では千葉氏率いて小田原城籠城した。合戦後は妻と離別して兄の氏直に従い高野山隠棲し、のち阿波蜂須賀氏仕官したその後苗字大石伊勢 → と改めながら、幕末まで続いた北条氏忠正室と娘の姫路毛利輝元預けられ、のちに長門国知行1000石を与えられた。正室死後、輝元の家臣出羽元盛の次男姫路の婿となり北条就之と名乗った。この家系江戸時代通じて長門国萩藩士として存続し幕末には大坂留守居役北条瀬兵衛伊勢氏華)・北条源蔵伊勢煥。幕府咸臨丸訪米団に参加した。)の兄弟出した北条氏光の子北条氏則(-1636)は、小田原落城後は母や姉と共に京都大徳寺に蟄居した。氏則の娘は北条氏長嫁いでいる。氏則の子の氏平は播磨国龍野藩主の小笠原長次招かれ家禄7百石客分となった。室は小笠原内膳娘。小笠原家九州豊前国中津藩転封されるとそれに従ったが、のち同家退去し江戸住んだ。氏平は石見国津和野藩坂崎直盛の弟の三好家次の次男の氏信を婿養子とした。 譜代大名伊丹氏から肥前国大村藩養子入りした大村純長実母は、三好家次(井上家次?)の娘つまり氏信の実姉であった。この縁により慶安4年1641年)に氏信は大村家臣となり、純長の信任厚く同藩家老職藩主代行をも勤めた以降の子孫は養子迎えながらも、大村藩要職歴任した

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