牛の峠境界論争とは? わかりやすく解説

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牛の峠境界論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/05 05:02 UTC 版)

牛の峠」の記事における「牛の峠境界論争」の解説

江戸時代初期日向国南部対峙する飫肥藩薩摩藩境界鰐塚山から牛の峠へと連なる分水嶺とされていた。分水嶺南東斜面日照時間長く木材資源豊富な場所であった1627年寛永4年)、飫肥藩藩主伊東祐慶指示により牛の峠の南東斜面伐採が行われた。これを知った薩摩藩三股三股町)の住民が自らの土地であると主張し木材搬出拒否した薩摩藩鰐塚山から板谷河内川三角石を経て牛の峠に至る谷沿いの境界線主張し飫肥藩鰐塚山からヶ峠、岳を経て牛の峠に至る尾根沿いの境界線主張した。両藩で検分したもの結論には至らなかった。この際薩摩藩家老比志島国隆が武力による威嚇行った薩摩藩は国隆を流罪とし、後に切腹させている。1633年寛永10年)、現地視察した江戸幕府巡検使飫肥藩主張支持し薩摩藩領域南西部牛の峠付近について飫肥藩主張認めたものの北東部北河内付近については納得せず論争継続されることになったちなみに飫肥藩主の祐慶の母である阿虎の方は江戸幕府大奥按察使局従姉妹で、祐慶の次男である祐豊は当時徳川家光小姓であった1644年正保元年)、徳川家光国絵図作成指示し日向国絵図については薩摩藩担当することになった1646年正保3年)、日向国諸藩薩摩藩出向いて境界確認行い飫肥藩薩摩藩北河内付近について境界線未定とすることで合意したしかしながら薩摩藩は、幕府から住民意向確認するよう指示受けたことを根拠問題の場所を諸県郡薩摩藩領)として絵図作成した飫肥藩抗議したものの受け入れられず、絵図1649年慶安4年)に幕府提出された。 1657年明暦3年)、明暦の大火によって江戸城焼失し薩摩藩再建のための木材調達することになったこの際論争地で伐採が行われたものの飫肥藩木材搬出拒否し、これ以後、両藩とも論争地への立ち入り禁じた飫肥藩1667年寛文7年)に来訪した幕府巡見使訴えたものの取り上げられず、1673年延宝元年8月14日提訴することを決定した以後、両藩での話し合い行われた論争平行線のままであった1674年延宝2年11月3日北河内百姓名義(実際に武士)にて幕府訴訟書が提出された。双方あらかじめ協議の上書類準備して1675年延宝3年6月頃に江戸へ入った1675年6月14日幕府評定所にて協議開始され薩摩藩側は文明年間島津家記録文明記』と現地置かれている神木像を証拠として主張したが、幕府どちらも証拠ならないとして斥けた。 1675年延宝3年11月22日江戸幕府飫肥藩側の主張認め裁決下し飫肥藩勝訴薩摩藩敗訴決着の上で両藩の境界確定した

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