流人の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:17 UTC 版)
その後、出羽国丸岡に1代限りの1万石を与えられ、母・正応院や側室、乳母、女官、20名の家臣とともに50人の一行で江戸を立ち(細川忠興書状)、肥後に残していた祖母(正応院の母)も呼び寄せて、丸岡で22年間の余生を過ごした。丸岡は堪忍領であり、年貢の取立てなどは庄内藩の代官が行ったので、配所に赴いた家臣20名はもっぱら忠広の身辺に仕えた。忠広は、文学や音曲に親しみ、書をしたり、和歌を詠んだり、金峯神社参拝や水浴びなどをしたり、かなり自由な生活の様子が諸史料に見える。配流の道中に始めた歌日記1年余の319首を『塵躰和歌集』に編んでいる。 徳川義宣の研究によれば、『小倉百人一首』で耳馴れた語句を用いた歌が数多く、『伊勢物語』にも大きな影響を受けており、東国へ下った業平のように身をやつした己を見て感慨にむせぶ様子が窺える。同様に光源氏にもその身を投影したものか『源氏物語』からの引用も多く見られるという[要出典]。尺八など楽器に親しむ歌もある。表では小姓たちに、奥では母、乳母、祖母、愛妾、侍女たちに囲まれ、歌を詠み、源氏を繙き、音曲を奏で、酒に酔っては花鳥を慈しみ風月を愛でるといった、地味でありながらも充実した生活を送っていたことが垣間見える。 20年を過ごした慶安4年(1651年)6月に母が没し、2年後の承応2年(1653年)に忠広本人も死去した。享年53。遺骸は忠広の遺言が聞き届けられ、屋敷に土葬してあった母・正応院の遺骸と共に本住寺(現・山形県鶴岡市)に葬られ、墓も並んで造られた。家臣の加藤主水は剃髪をし僧侶となり、忠広の墓守になった。遺臣のうち希望した6人が庄内藩に召抱えられ、その子孫は幕末まで庄内藩に仕えた。
※この「流人の生活」の解説は、「加藤忠広」の解説の一部です。
「流人の生活」を含む「加藤忠広」の記事については、「加藤忠広」の概要を参照ください。
- 流人の生活のページへのリンク