沖縄貝塚文化とは? わかりやすく解説

沖縄貝塚文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 08:23 UTC 版)

沖縄貝塚文化(Okinawakaizukabunka)、沖縄貝塚時代(おきなわかいづかじだい)は、沖縄諸島を中心とする時代区分の一つ[1]沖縄の歴史の文脈上では、単に貝塚時代と呼ぶ。


注釈

  1. ^ この時期は史料が少なく、よく分かっていない。後述する遺跡の断絶期間も参照されたい。
  2. ^ a b なお九州島(太宰府)の出先は筑前国の博多や、肥前国の彼杵半島(松浦)や五島列島などである。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 安里(1996)
  2. ^ a b c d e f g 安里・土肥(2011)
  3. ^ a b c d e 山極(2015)
  4. ^ 古川・藤谷(2014)
  5. ^ 土肥(1994)
  6. ^ ペラール(2012)。
  7. ^ 高梨ら(2009年)p.259-260
  8. ^ 高宮、伊藤編(2011)p.196
  9. ^ a b 高宮、伊藤編(2011)pp.196 - 198
  10. ^ 東京国立博物館『Museum = ミューゼアム : 国立博物館美術誌』1951年、美術出版社
  11. ^ 沖縄の歴史”. rca.open.ed.jp. 2019年4月16日閲覧。
  12. ^ 沖縄最古8千年前の土器発見 南城・サキタリ洞遺跡”. ryukyushimpo.jp. 2019年4月16日閲覧。
  13. ^ 読売新聞 沖縄最古8000年前の土器片 九州にない文様
  14. ^ 沖縄の歴史”. rca.open.ed.jp. 2019年4月16日閲覧。
  15. ^ 沖縄の歴史”. rca.open.ed.jp. 2019年4月16日閲覧。
  16. ^ 大木(2005)
  17. ^ a b 高梨(2005)
  18. ^ a b 木下(2002)
  19. ^ a b c d e f g 安里(2013)
  20. ^ a b c d 中村(2014)
  21. ^ 先島諸島の先史時代 - 沖縄県教育委員会
  22. ^ 南琉球最古の土器の謎を解明 ~新たな非破壊的な理化学分析で明らかになった先史土器文化の変遷~ - 琉球大学
  23. ^ 下田原貝塚 - 全国こども考古学教室
  24. ^ 先島諸島の先史時代 - 沖縄県教育委員会
  25. ^ 八重山の考古学 - 石垣市教委員会
  26. ^ 沖縄の編年 - 沖縄県教育委員会
  27. ^ 宮古島で出土の人骨、本土縄文人のDNAと同じ特徴…「交流なし」の通説に影響 - 読売新聞



沖縄貝塚文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:32 UTC 版)

沖縄県の歴史」の記事における「沖縄貝塚文化」の解説

「沖縄貝塚文化」も参照 貝塚時代は、縄文時代にあたる貝塚時代前期と、弥生時代から平安時代にあたる貝塚時代後期大きく分けられる沖縄貝塚時代採集漁猟狩猟生業中心であった前半については本土縄文時代中期頃から遺跡みられるうになる狩猟採集経済縄文土器類似する波状口縁の土器をもつことなどから「縄文時代」の名称を使用する場合もあるが、縄文時代縄文文化とするかは意見分かれる7000年前位から縄文式様の土器現れ4000年前位から伊波式、堂式など沖縄独自様式土器現れる中期2500年前位から竪穴住居集落現れる後期は、海岸砂丘上に遺跡立地移動し交易漁撈中心とした生業考えられている。弥生時代特徴稲作水稲耕作)があげられるが、現時点弥生時代にあたる時期水田みつかっておらず、農耕がはじまるのは貝塚時代後期の末である。弥生土器など弥生時代遺物流入みられるものの、弥生文化影響はあまり見られず、むしろ独自色顕在化する時期である。また貝の道と呼ばれる貝輪などの貝製品材料となる南西諸島生息する貝を日本本土へ遠く北海道まで)大量に運ばれたことが知られている。また、奄美地方では螺鈿細工原料となるヤコウ貝の集積地が存在し唐代貨幣開元通寶)が発見される事から九州地方商人活動推定されている。 縄文文化影響強かった沖縄諸島対し先島諸島宮古諸島八重山諸島)ではかなり違った様相見られる縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底牛角突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。これらは縄文土器よりも台湾先史時代土器との共通点指摘されており、この時期には縄文文化異な東南アジア系の文化オーストロネシア文化)があったとも考えられるその後2500年前から先島諸島無土器文化時代に入るが、この時代シャコガイ用いた貝斧など東南アジアとの関連性示唆する遺物みられる。約800年ごろになる徳之島産のカムィ焼長崎産石鍋やそれを模倣した鍋形土器などがみられるようになり、本島地方近しい文化をもつようになる古代史では、『続日本紀』記録として714年和銅7年)に「信覚・球美」などの人々来朝したと記されている。新井白石は「信覚」は石垣島、「球美」は久米島比定している。また753年天平勝宝5年)には鑑真渡航途中阿児波島」に到着したとされ、これは沖縄本島こととされる。これ以後沖縄の名称は長らく記録から消える。これらの古代史料から、7世紀から8世紀にかけての南西諸島社会身分形成され階級社会向かってたとする説や政治的社会形成されつつある社会との説が出されている。

※この「沖縄貝塚文化」の解説は、「沖縄県の歴史」の解説の一部です。
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