晩年の苦境
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1965年(昭和40年)、新たに漫画科(通称「漫画学校」)が創設された専修学校・東京デザインカレッジの理事兼特別講師に就任した。これと並行し、近藤と、当時「三協美術印刷」を経営していた菅生は1967年(昭和42年)末、新生「漫画社」から『漫画』を復刊させた。 この復刊版『漫画』はA4判・上質紙60ページという雑誌としては異例のパッケージが取次業者に敬遠され、ほとんど販売ルートに乗らなかった。また、若手漫画家をほとんど起用しなかった。峯島はこの復刊版『漫画』について、漫画編集者の立場から「新鮮味のある内容ではなかった」「『漫画』がそのまま復活したような感じ」「熟年雑誌」「時代逆行も甚だしい」と酷評している。復刊版『漫画』は翌年の1968年(昭和43年)に廃刊し、「漫画社」は2000万の負債を抱えた(「漫画社」は以降数年間のみ債務を持つだけの休眠会社となり、近藤はその間、自ら社主として「漫画アイデアセンター」を新たに設立している)。 さらに、東京デザインカレッジの元役員の放漫経営が発覚。3億5000万円にのぼる負債を抱えていることが判明したうえ、残された理事がいつの間にか連帯保証人にされ、近藤を含めて1人あたり3000万円の借金を返す算段に迫られた(同校は1969年末に倒産)。そして、1969年(昭和44年)から翌年にかけては、近藤個人による長期連載の仕事が相次いで終了した。 近藤は借金の返済と、漫画社で「働いていた若い人の働き場」のため、政党や事業団体がPRとして配布するための、広告およびパンフレット制作の請負事業に乗り出すことにした。『漫画』に付録のアンケートを送ったことのあった笹川良一を通じ、自由民主党とのあいだで、党が近藤らの作った冊子を買い取って負債を補填する計画がまとまった。1969年、近藤、杉浦、那須、牧野圭一、大下健一の執筆による漫画パンフレット『安保がわかる』が発行された。漫画社の専務(のち社長)・樋口信によれば、1冊あたりの買い取り定価を50円程度に設定し、80万部出版し、全国の図書館・学校のほか、財界や宗教団体に行き渡ったという。主要な報道メディアの論調は日米安保条約を破棄する立場に傾いていたため、近藤は激しい批判にさらされることとなった。このほか政界向けの公害問題パンフレット『猿の鼻毛』(1971年)、民社党の政策集『心配にっぽん、この道がある』(1972年)、外務省広報課のパンフレット『これからの日本外交 大平外務大臣に聞く』(1973年)などを発行した。 近藤は1972年(昭和47年)に、一時休眠していた「漫画社」を再建。「漫画集団」との連携を深め、集団メンバーのうち杉浦幸雄と横山隆一が取締役、鈴木義司、富永一朗らが株主となった(牧野圭一と加藤芳郎はのちに株式を手放し、漫画社との関係を絶った)。「漫画社」は電気事業連合会(電事連)のパンフレット『電気は心 原子力発電を考える』(1974年)を皮切りに、原子力発電関連の広報に着手。以降長年、「漫画社」は電事連の事実上の窓口となり、年間150万円の看板料で「漫画集団」メンバーに、広報のための漫画やカットを請け負わせたとされる。このことについても、近藤の死後に刊行された雑誌『COMIC BOX』などで大きな批判を受けた。 近藤は1976年(昭和51年)1月、読売新聞社近くのレストランで夕食をとっている最中に脳卒中で倒れ、慈恵医大病院に運ばれた。利き手側の右半身麻痺と言語障害の後遺症が残り、同年5月に日本漫画家協会理事長を辞任し、同年9月に読売を退社。以降は引退状態となった。この前後、次男(1973年)と妻(1978年)に相次いで先立たれている。 1979年(昭和54年)、肺炎のため転院先の東京・江古田の武蔵野療園病院で死去。71歳没。死去時点で、「漫画学校」関連の債務が6万円残っていたという。死後、横山隆一の次男によって自叙伝の草稿が発見された。『近藤日出造の世界』にその多くが収録されている。
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