日本第28軍のペグー山系への集結
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「シッタン作戦」の記事における「日本第28軍のペグー山系への集結」の解説
4月26日には既述のとおり、作戦発動の前段階である第28軍のペグー山系集結が発令された。しかし、イギリス軍との交戦や輸送力・通信能力の不足などから、部隊の集結は容易に進まなかった。第28軍輸送隊が物資運搬を担当して糧秣・弾薬2ヶ月分を集積する計画であったが、イギリス軍の進撃が早く実現されず、各部隊が自力で糧秣を運ぶことになった。各部隊の移動経過は以下のとおりであり、7月2日時点で第28軍司令部が掌握できた総兵力は約34000人であった。 第28軍の主力である第54師団は4月時点でビルマ西海岸のラカイン州方面におり、ペグー山系までの間にアラカン山脈とイラワジ川(エーヤワディー川)を越えなければならなかった。師団は5月2日の戦闘で師団通信隊が壊滅したため通信機と暗号書を全損し、イラワジ川西岸に辿り着くまでに師団主力は砲兵の装備火砲と速射砲を全て破棄した。師団はイラワジ川東岸を南下してくるイギリス軍第33軍団(en)と交戦しつつ、5月7-25日にイラワジ川を渡河した。その後、イギリス軍と交戦しつつパウカン平地で食料を収集し、右縦隊(歩兵第111連隊基幹)を除き6月下旬にほぼペグー山系に集結を終えた。タンガップ地区(en)の馬場部隊(歩兵第121連隊基幹)は第28軍直轄として抽出され、師団主力とは別行動で5月26日にペグー山系オンゴンに集結した。 第55師団が転出に際してイラワジ川デルタ地帯に残置した振武兵団(兵団長:第55歩兵団長・長澤貫一少将)は、5月11日に出発して比較的順調に集結できた。同兵団はペグー山中で食料不足に苦しみつつも渡河の準備を進め、ロサンゼルス五輪競泳金メダリストの北村久寿雄中尉が水泳の指導や地形偵察に活躍した。同じ第55師団の分遣隊である神威部隊(騎兵第55連隊基幹)もアランミョー(現en:Myede)及びパローで歴戦後、第28軍配属参謀・土屋英一中佐の指導に基づき6月下旬の邁作戦実施を予想して、6月上旬に自主的にペグー山系に移動を終えていた。他方、干城兵団(第55師団の歩兵第112連隊基幹)は、4月18日にポッパ山から撤退後に第28軍司令部と通信不能となり、独自の判断でペグー山系に入った。しかし、その後、山中で会った部隊から「6月20日頃に第28軍がシッタン川を渡河」との誤った情報を聞き、6月23日まで軍主力を捜索したが発見できなかったため、6月28日から12日間かかって小舟数隻を使ってわずか負傷1人の損害でシッタン川の渡河を終えていた。ただし、歩兵第112連隊第1大隊と中島重砲大隊(15cm榴弾砲6門)は同兵団主力とはぐれ、7月16日にペグー山中で第28軍主力に収容された。 敢威兵団こと独混第105旅団(旅団長:松井秀治少将)は4月にラングーンを出撃してマンダレー街道を南下してきたイギリス軍と交戦後、ペグー山系南部を拠点に遊撃戦を続けており、6月10日に第28軍の指揮下に入った。配属部隊を合わせて約3400人の兵力を掌握したほか、15kmほど離れた地点に集結した第13警備隊司令の深見盛雄大佐率いる第13根拠地隊関係の海軍陸戦隊650人を指揮下に入れるものとされた。 集結に失敗した部隊もあり、第28軍の第118兵站病院(病院長:松村長義軍医少佐)は、4月29日にパウンデ(en)を発ってペグー山中に入ったが、軍司令部と連絡が取れないまま、軽症患者1000人を連れて独自にモールメンを目指して出発した。しかし、5月18日にシッタン川渡河の準備中にイギリス軍約150人の攻撃を受けて、松村病院長以下職員38人戦死・140人生死不明のほか、患者もほぼ全員が戦死または生死不明となって壊滅した。 貫徹兵団こと独立混成第72旅団(旅団長:小原金祐大佐)は、4月22日に守備地エナンジョンを失った後に電池切れで通信途絶状態となり、分散していた隷下部隊の統一行動ができなくなっていた。旅団主力は「5月中旬に第28軍主力はタイへ転進済み」との誤った伝聞に基いて独自にシッタン川を渡河し、7月2日にシッタン川東岸で第53師団と連絡した。旅団主力とはぐれた独立歩兵第542大隊(大隊長:向井芳雄少佐)は、5月下旬にペグー山中で第28軍主力に合流した。
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