教皇の予備交渉 (1245–1248)
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「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「教皇の予備交渉 (1245–1248)」の解説
西欧とモンゴル帝国の間の最初の公式な交流は、ローマ教皇インノケンティウス4世 (在位: 1243年–1254年) と大ハーンとの間で行われ、書簡文書を携えた特命全権公使は陸路で数年を掛けて目的地であるカラコルムに到達した。交流は、西欧がモンゴルにキリスト教西方教会への改宗を要請し、モンゴルが西欧に服属を要求することで応えるという西欧–モンゴル間の規則的パターンとなって開始された。 1242年、チンギス・カンの後継者である大ハーン、オゴデイの死去に伴い、モンゴルのヨーロッパ侵略は一旦終了した。モンゴルでは大ハーンが亡くなると、帝国各地から次期大ハーンを選出するクリルタイを開催するため、有力モンゴル人達は首都カラコルムに呼び戻された。その間、モンゴル軍の冷酷な西方への進軍は、ついにはエジプトのアイユーブ朝イスラム教徒と同盟して、自らも西へと進出していたホラズム・シャー朝をさらに西へと追いやった。続く1244年、ホラズム朝はキリスト教徒からエルサレムを奪還した。その後のラ・フォルビーの戦いの喪失の後、キリスト教国の諸王は新たな十字軍 (第7回十字軍) に備え始め、1245年6月、第1リヨン公会議でインノケンティウス4世によって宣言された。エルサレムの喪失は、一部の西欧人に、モンゴルをキリスト教西方教会に改宗させることが出来たならば、キリスト教国の潜在的同盟国になりうる存在としてモンゴル人に目を向けさせることとなった。 1245年3月、インノケンティウス4世は複数の教皇勅書を出し、その幾つかは「タタールの皇帝」宛にフランシスコ会のプラノ・カルピニを使節として送られた。今日この書簡は Cum non solum(英語版) と呼ばれている (ラテン語文書では書物の題名という概念が発達していなかった時代、冒頭の数語 (インキピット) を用いて題名に代えるのが通例であり、この書簡のインキピットから命名された) が、この中でインノケンティウス4世は平和に対する欲求を表明し (モンゴルの語彙では「平和」と「服従」は同義語であることを知らなかったと思われる) 、モンゴルの統治者がキリスト教徒に改宗し、キリスト教徒を殺すのを止めるよう依頼した。しかし、新しいモンゴルの大ハーンとして1246年にカラコルムで即位したグユクは、ローマ教皇の服従とモンゴルの権威に対して西欧君主らの朝貢を要求する内容のみで回答した。 そなた達は誠実な心をもって「私達はあなたに服従し奉仕します」と述べねばならない。汝自身と全ての封建王国の君主らは例外なく参内し、奉仕し付き従わねばならない! その上で私はそなた等の服従を認めるであろう。もしそなたが神の命令に従わないならば、そしてもし我々の命令に従わないならば、私はそなた等を我が敵国とみなすであろう。 —グユク・ハーンからインノケンティウス4世への書簡; 1246年 1245年、インノケンティウス4世による2通目の書簡はドミニコ修道会に属するロンバルディアのアンセルムス[要リンク修正]によって伝えられた。彼は1247年にカスピ海の近くでモンゴル軍の指揮官バイジュに会った。バグダード攻略を計画していたバイジュは、教皇の権威をかさに尊大な態度で接するアンセルムスら使節団に激怒して面会を拒否したものの、同盟の可能性を歓迎して、彼の使節としてアイバクとサーキス(英語版)を通じてローマにメッセージを送った。それから、彼らはインノケンティウス4世の手紙 Viam agnoscere veritatis(英語版) とともに1年後にローマへ帰還した。そこにおいて、教皇は彼らの脅威をやめるよう、モンゴル人使節に訴えた。
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