戦後の任務
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ハイダは約1年間予備役に置かれたが、1947年には兵装と電波装備類の近代化のため現役復帰した。既存の主砲は全て撤去され、前部主砲(A砲とB砲)2基は4インチ連装高角砲に、後部主砲は3番砲(X砲)が3インチ連装速射砲 にそれぞれ換装されたほか、4番砲(Y砲)があった場所にはスキッド対潜迫撃砲2基が設置された。Mk.63 砲射撃指揮装置が装備されたほか、メインマストはアルミニウム合金製の高さが低いものに置き換えられ、煙突にはファンネルキャップが取り付けられている。 ハイダには275型、SPS-10、SPS-6、293型、262型レーダーと140型、174型ソナーが備えられた。改装中に火災で艦橋が焼けたほか、速度試験中にボイラー配管が破裂する事故が発生した。1947年5月にハイダは艦隊に復帰した。ペナントナンバーはG63のままであった。 ハイダと姉妹艦ヌートカ(英語版)は、続く数年間をアメリカ海軍やイギリス海軍とカナダ海軍大西洋艦隊間の共同演習に参加して過ごし、1948年秋にはハドソン湾を通過した初めてのカナダ海軍艦になった。1949年6月4日には、ノバスコシア州ポート・モートンで座礁事故を起こした空母マグニフィセントの救援に参加した。1949年11月、ハイダは大西洋上に墜落したアメリカ空軍のB-29爆撃機の乗員18名を救助している 。12月、ハイダはハリファックスで倉庫艦・宿泊艦に格下げされた。 1950年6月25日に朝鮮戦争が始まったことでハイダは活性化された。1950年7月に護衛駆逐艦への改装が始まり、兵装、センサー、通信機器類が更新された。改装が完了したハイダは1952年3月15日に再就役し、新たなペナントナンバーDDE 215が与えられた。9月27日にハイダは日本の佐世保へ向けハリファックスを出港、パナマ運河を通過し11月6日に到着した。 ハイダは11月18日からヌートカを支援し、朝鮮半島西岸で空母の護衛や沿岸部の哨戒を行い11月29日に補給のため佐世保へ戻った。12月4日に朝鮮半島東岸を哨戒し、アメリカ海軍の護衛駆逐艦ムーア(英語版)と共同で城津の鉄道操車場、沿岸砲台、北朝鮮軍部隊を砲撃した。12月18日から19日にかけてハイダは敵の列車を砲撃したが、その蒸気機関車は傍のトンネルに隠れてしまい「トレインバスターズ・クラブ」(Trainbusters Club)の仲間入りはならなかった。ハイダは1953年1月3日に哨戒へ戻り、空母の護衛と沿岸部の砲撃を継続した。1月29日、利原郡北部の列車を攻撃し、ハイダは「トレインバスターズ・クラブ」の仲間入りを果たした。5月26日には2編成目の列車を破壊、白翎島への帰路で漂流していた機雷1個を爆破している。6月12日にハイダは佐世保へ戻り、西回りでスエズ運河を通過し1953年7月22日にハリファックスへ到着した。 ハイダは二度目の朝鮮展開のため1953年12月14日にパナマ運河を抜けて1954年2月5日に到着した。既に休戦協定が結ばれてはいたものの、北朝鮮と中国の協定違反行為が発生していたため、韓国周辺でプレゼンスを示す必要があった。1954年9月12日に朝鮮水域を離れたハイダはスエズ運河を抜けて11月1日ハリファックスに帰着した。 朝鮮半島での任務後、ハイダは他の北大西洋条約機構加盟国の艦艇と共に大西洋と西インド諸島での対潜哨戒任務に就く。1956年5月、ハイダはイロコイとヒューロンと共に都市や街、港を訪問した。 ハイダの艦体や装備は不具合を抱えており、1958年1月から改装が実施された。様々な問題解消のために更なる改装を実施した後、1960年1月に西インド諸島へ向かう。しかしながら、4月3日に舵機歯車で故障が発生したことでハイダの不具合は最高潮に達し、ハリファックスへ引き返さざるを得なくなった。5月の全面点検の結果、ハイダには広範な腐食や亀裂が発見され、年内いっぱいを乾ドックで過ごすことになった。1961年3月に荒天下での任務中、新たな亀裂が見つかったため6月から7月に更なる修理を行った。1962年3月には再び亀裂が発見され、1963年2月まで修理に費やした。
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