戦国時代の武田氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:33 UTC 版)
信重の復帰以降も国内の有力国人や守護代である跡部氏の専横や一族の内紛、周辺地域からの侵攻に悩まされたが、16代信昌の時には跡部氏を排斥して家臣団の統制を行い国内を安定化に向かわせるが、後継者を巡り内乱となる。 18代信虎の頃には国内はほぼ統一され、甲府に躑躅崎館を建設した。更に積極的に隣国である信濃国に侵攻して家勢を拡大し、19代晴信(武田信玄)の時には大名権力により治水や金山開発など領国整備を行い、信濃に領国を拡大した。信玄は隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで後顧の憂いをなくして信濃侵攻を進め、北信濃地域の領有を巡って越後の長尾景虎(上杉謙信)と衝突した(川中島の戦い)。今川氏が衰退した後は、同盟を破棄して駿河国へ侵攻した。 1572年(元亀3年)、徳川家康との戦いのために西上作戦を開始するが、途中室町幕府第15代将軍・足利義昭の要請に応じて上洛戦に転じる。だが、直後に信玄が病死したため、武田軍は甲斐国に撤退した。最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国および上野国・遠江国・三河国・美濃国・飛騨国・越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有した。武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、1575年(天正3年)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、1582年(天正10年)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)。徳川家康の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせ、のち家康自身の五男の福松丸に武田信吉と名乗らせ、家督を継がせたが、断絶した。
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