幼少期から司祭時代とは? わかりやすく解説

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幼少期から司祭時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 22:58 UTC 版)

ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の記事における「幼少期から司祭時代」の解説

ヨーゼフ・ラッツィンガー1927年、父ヨーゼフ母マリア次男としてドイツバイエルン州マルクトル・アム・イン生まれた父親警察官であり、母は食堂の手伝いをして生計立てていた。父ヨーゼフ1937年退職したが、勃興してきたナチスに対して激し嫌悪感抱いていた。兄ゲオルクドイツ語版)は、後にヨーゼフと共に司祭職志して司祭となり、ヨーゼフ教皇になった後も時折会っていたが、2020年7月1日96歳で亡くなったことが分かった。姉マリア生涯独身自身の身の世話をしていたが、1991年亡くなっている。 親族によればヨーゼフ小さい頃から司祭になることを夢見ていたという。しかし1939年第二次世界大戦勃発しドイツ戦争一色になると14歳ヒトラーユーゲント加入する当時ドイツでは、「ヒトラーユーゲント法」によって、10歳から18歳までの青少年ヒトラーユーゲント加入することが義務づけられていた。1943年には学友と共に対空防衛補助活動動員され1944年にいったん自宅へ戻ることができたが、戦況の悪化ともなって再び動員され歩兵としての訓練受けた1945年4月ドイツ降伏後わずかな期間ウルム捕虜収容所収容されていたが、まもなく解放された。 戦後に兄ゲオルクと共にトラウンシュタインの聖ミカエル神学校にはいったヨーゼフ1951年6月29日司祭叙階され、1953年に『聖アウグスティヌス教会論における神の民と神の家』という論文神学博士号を取得。さらに1957年には聖ボナヴェントゥラについての論文著して大学教授資格得てフライジング哲学神学大学ドイツ語版)に迎えられた。ヨーゼフ1959年から1963年まではボン大学教え、ついでミュンヘン大学テュービンゲン大学教鞭をとった。テュービンゲンでは著名な神学者ハンス・キュングと共に教えたが、当時大学あふれていた学生運動学生たちのマルクス主義への傾倒には行き過ぎ感じていた。1969年から1977年まではレーゲンスブルク大学ドイツ語版)に所属し1976年から副学長務めた。この時期教え子一人に、後に側近となったクリストフ・シェーンボルンがいる。 第2バチカン公会議ではケルン大司教ヨーゼフ・フリングス枢機卿神学顧問として活躍公会議文書キリスト教以外の諸宗に関する教会態度についての宣言』の作成において貢献した。後にラッツィンガー教理長官として再び他宗教・思想との関係を論じた『ドミヌス・イエスス』を世に問うことになる。

※この「幼少期から司祭時代」の解説は、「ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
「幼少期から司祭時代」を含む「ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の記事については、「ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の概要を参照ください。

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