幼少期から司祭時代
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「ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の記事における「幼少期から司祭時代」の解説
ヨーゼフ・ラッツィンガーは1927年、父ヨーゼフと母マリアの次男としてドイツのバイエルン州マルクトル・アム・インで生まれた。父親は警察官であり、母は食堂の手伝いをして生計を立てていた。父ヨーゼフは1937年に退職したが、勃興してきたナチスに対して激しい嫌悪感を抱いていた。兄ゲオルク(ドイツ語版)は、後にヨーゼフと共に司祭職を志して司祭となり、ヨーゼフが教皇になった後も時折会っていたが、2020年7月1日に96歳で亡くなったことが分かった。姉マリアは生涯独身で自身の身の世話をしていたが、1991年に亡くなっている。 親族によれば、ヨーゼフは小さい頃から司祭になることを夢見ていたという。しかし1939年に第二次世界大戦が勃発し、ドイツが戦争一色になると14歳でヒトラーユーゲントへ加入する。当時のドイツでは、「ヒトラーユーゲント法」によって、10歳から18歳までの青少年はヒトラーユーゲントへ加入することが義務づけられていた。1943年には学友と共に対空防衛補助活動に動員され、1944年にいったん自宅へ戻ることができたが、戦況の悪化にともなって再び動員されて歩兵としての訓練を受けた。1945年4月にドイツ降伏後のわずかな期間ウルムの捕虜収容所に収容されていたが、まもなく解放された。 戦後に兄ゲオルクと共にトラウンシュタインの聖ミカエル神学校にはいったヨーゼフは1951年6月29日に司祭に叙階され、1953年に『聖アウグスティヌスの教会論における神の民と神の家』という論文で神学博士号を取得。さらに1957年には聖ボナヴェントゥラについての論文を著して大学教授資格を得て、フライジング哲学神学大学(ドイツ語版)に迎えられた。ヨーゼフは1959年から1963年まではボン大学で教え、ついでミュンヘン大学、テュービンゲン大学で教鞭をとった。テュービンゲンでは著名な神学者ハンス・キュングと共に教えたが、当時の大学にあふれていた学生運動や学生たちのマルクス主義への傾倒には行き過ぎを感じていた。1969年から1977年まではレーゲンスブルク大学(ドイツ語版)に所属し、1976年から副学長を務めた。この時期の教え子の一人に、後に側近となったクリストフ・シェーンボルンがいる。 第2バチカン公会議ではケルン大司教ヨーゼフ・フリングス枢機卿の神学顧問として活躍。公会議文書『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』の作成において貢献した。後にラッツィンガーは教理省長官として再び他宗教・思想との関係を論じた『ドミヌス・イエスス』を世に問うことになる。
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