帝国の斜陽 スペイン・バロックの萌芽 1621年までとは? わかりやすく解説

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帝国の斜陽 スペイン・バロックの萌芽 1621年まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:02 UTC 版)

スペイン黄金時代美術」の記事における「帝国の斜陽 スペイン・バロックの萌芽 1621年まで」の解説

1598年即位したフェリペ3世祖父や父のような器量才知持てず無駄な遷都労働力農民として帝国貢献していたモリスコキリスト教改宗したイスラム教徒追放などを行い国力疲弊させた。政治レルマ公爵怠惰な王を支えたが、この関係は寵臣政治形成もたらしてしまう。しかし公爵はこの時代画家パトロンとして活躍しイタリア版画収集した1603年訪問してきたルーベンス肖像画を描かせたりしており、この時代美術中心的な存在となる。 公爵呼んだ画家としてエスコリアル宮で働いていた、フェデリコ・ツッカリ弟子であったイタリア人画家バルトロメ・カルドゥッチョ挙げられる。師から受け継いだ保守的な絵を多く描いた実務家として優れ多数イタリア人画家スペインにやってきたのである。しかし保守的な画家ばかりで当時ローマで席巻していたカラヴァッジョカラッチなどのバロック表現はまだ受け入れられなかった。バルトロメの弟ビセントも公爵の下で精力的な活動をする。保守的な作品描いたものの、かなりの読書家蔵書大量に残した教養人でもあり、画家という仕事地位スペインにおいて高めるという大きな役割果たした同僚画家エウジェニオ・カヘスと共に実りはしなかったもののマドリード絵画アカデミー創設しようとした運動起こした人物でもある。他には驚異的な精巧さを持つ静物画描いたフアン・バン・デル・アメン活躍した公爵息子ウセダ公爵陰謀父親追放し美術にも関心がなかったのでマドリード宮廷美術停滞期迎える。 旧都トレドでは独立的に絵画伝統保っていた。1627年まで筆を持ったフアン・サンチェス・コターン宗教画多数残しているが彼の本領静謐静物画であった厨房を描く(ボデゴン)という伝統を創り出し、その高い写実性は非常に高く評価されている。スペイン自然主義絵画先駆であり、マニエリスムからバロックへ移る起点となった。フアン・バウティスタ・マイノはトレドカラヴァッジョ風の絵画導入した人物であり、後進たちに大きな影響与えることになった。しかし彼は1613年に筆を折りスペイン絵画黄金時代統治することになるフェリペ4世当時皇太子)に芸術教育施したカラヴァッジョ影響受けた他の画家に、エル・グレコ門下で独特の表現残したルイス・トリスタンやペドロ・オレンテなど、トレド絵画中心担ったバレンシアでもフランシスコ・リバルタ動的な宗教画描きセビリアではベラスケスの師であるフランシスコ・パチェーコ写実的な作品残し一時代築き上げた。彼は『絵画芸術論』という理論書残している。これらの画家たちから次世代学び偉大な時代訪れることになる。

※この「帝国の斜陽 スペイン・バロックの萌芽 1621年まで」の解説は、「スペイン黄金時代美術」の解説の一部です。
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