孤独な戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 09:42 UTC 版)
第101空挺師団は、ドイツ第2装甲師団対策に第503パラシュート連隊を北部に、ノヴィル防衛に第506パラシュート連隊、東方向を第501パラシュート連隊、南周辺に沿って南東のMarvie から西のChampsへ第327グライダー連隊とそれぞれ配置し、バストーニュの周りの防御を固め、その隙間を工兵と砲兵が塞いだ。バストーニュ西側は初日に急襲され、医療中隊がかなりの損害を受けており、師団の支援部門の多数の隊員が防衛線を補強する部隊として配置された。ドイツ軍に対する遅滞戦闘でかなりの損害を被っていた第10機甲師団B戦闘団の、チームデソブリー、チームチェリー、チームオハラは、あわせて40両の軽戦車と中戦車で「火消し部隊」を編成した(これには第9機甲師団の残存者、バストーニュで見つかった8両の代替戦車も含まれていた)。バストーニュにあった第969野戦砲兵大隊「all-black」(アフリカ系アメリカ人部隊)を含む3個の砲兵大隊は一時的に統合され、臨編砲兵群を形成した。各大隊はそれぞれ12門の155mm榴弾砲を保有しており、弾薬が限られている中、師団陣地全域に強力な火力を提供した。B戦闘団の指揮官、ロバーツ大佐は総崩れして敗走していたアメリカ第8軍団の落伍兵600名以上を集めて間に合わせのチーム・スナフ(Team SNAFU)を形成させた。 北方向、東方向へのアメリカ軍による激しい防衛戦の結果、ドイツ第XLVII装甲軍団司令官リュトヴィッツはバストーニュを包囲して南方向、南西方向から攻撃することを決定、12月20日〜21日の夜に開始した。ドイツ装甲偵察隊による攻撃はアメリカ軍の雑多な部隊に止められるまでにバストーニュ南西の砲兵陣地を越えており、最初の成功を得た。 本来ならば大多数の部隊で包囲するべきなのだが、第XLVII装甲軍団配下の2個装甲師団はバストーニュを包囲するための攻撃を行った後の22日、本来の任務であるマース川方面への進出へ向かった。ただし、第26国民擲弾兵師団によるアメリカ軍が防衛するバストーニュ中心の交差点への攻撃を支援するために1個連隊を置いていった。第XLVII装甲軍団はバストーニュの南と西の防御を確認するために強行偵察を行ったが、そこはパラシュート連隊と支援部隊によって撃退された。アメリカ軍は砲火を各々の部隊の攻撃のために効率的に移し、また、装甲部隊も移動させた。 第26国民擲弾兵師団はその翌日のクリスマス・イヴ、大規模攻撃のために第15装甲擲弾兵師団から1個装甲擲弾兵連隊を借り受けた。第26国民擲弾兵師団はすでに消耗しており、第XLVII装甲軍団はバストーニュの全体で個々の攻撃を行うよりも西部での攻撃に集中させた。歩兵大隊と戦車18両による攻撃は第327グライダー連隊第3大隊(公式記録では第401グライダー連隊第1大隊)の防衛線を突破、大隊指揮所まで進撃した。しかし、第327グライダー連隊は死守、後に続こうとしたドイツ軍を撃退し、92人の捕虜を得た。2手に分かれて侵入に成功したドイツ軍装甲部隊は(1つはシャンプ後方へ向かっていた)、パトリック・F・キャシディー( Patrick F. Cassidy)中佐指揮の第502パラシュート連隊第1大隊の2個中隊と第705駆逐戦車大隊の駆逐戦車4両に撃破された。 バストーニュにおけるアメリカ軍の存在はドイツ軍の進撃への大きな障害となっていた。そして、この孤独な戦いは、他の地域で戦っている連合軍の士気を高めた。バストーニュに通じている7本の道は12月21日正午までにはドイツ軍に寸断された。そしてアメリカ軍はドイツ軍に囲まれていることを認めざるを得なかった。アメリカ軍は数に圧倒された上に、冬装備、弾薬、食料、衣料品そしてリーダーシップ(師団長マクスウェル・D・テイラーを含む多くの将校が不在であった)が不足していた。何年に一度かの最悪な冬の天気のために、空軍は装備の空中投下もできず、空軍の支援攻撃の力も借りることができなかった。
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