孤独な幼年期
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ナポレオン・フランツの新たな家庭教師は、メッテルニヒの推薦によりモーリッツ・フォン・ディートリヒシュタイン(英語版)が務め、オーストリア・ドイツ風の教育にあたった。ナポレオン・フランツは「自分はフランス人である」という自覚を持ち、ディートリヒシュタインに抵抗した。 1816年3月7日に、母マリア・ルイーゼがパルマ公国の統治を任され、後ろ髪を引かれる思いでパルマへと旅立っていった。祖父フランツ1世は、ナポレオン崇拝者による誘拐や反ナポレオン派の反発による暴動を考慮して、ナポレオン・フランツの身を案じ、またその将来を危険視してウィーンに残留させた。ナポレオン・フランツはフランス語で初めての手紙を書き、母宛てに思慕を伝えた。 マリー・ルイーゼは首相であるナイペルク伯の公私にわたる助力を受けながら、パルマ女公として同地を統治した。マリー・ルイーゼは、パルマ公位が諸国との折衝によって一代限りであることに落胆しながらも、ナポレオン・フランツのために新たな称号の創設を強く要望した。家名は最終的に皇弟ライナー大公の提案と領地(ライヒシュタット(英語版)、現在のチェコ共和国)の提供により「ライヒシュタット公」とすることとなった。ナポレオン・フランツは、初めてドイツ語で手紙を書き、祖父帝フランツ1世に御礼を伝えた。 同年秋、マリア・ルイーゼはナポレオン・フランツを祝うためウィーンに帰京する予定だったが、極秘裏にナイペルク伯の子を身篭ったため、ナポレオン・フランツとの面会を果たせなかった。母親に約束を破られた彼は、この時大変に悲しんだという。1817年5月1日に、ナイペルク伯との娘アルベルティーネ(ドイツ語版) を出産した。 ナポレオン・フランツは、祖父フランツ1世、後妻の皇后カロリーネ・アウグステや後にブラジル皇后となる叔母マリア・レオポルディーネら、皇帝一家の一員として非常に可愛がられた。一方、少年が父ナポレオン1世に異常なまでに関心を寄せることに、周囲は困惑した。また父に似て、反抗心も強かった。 母マリー・ルイーゼとの再会が叶ったのは、別れから2年以上が経った1818年6月1日だった。母子はウィーナーノイシュタットに近いテレジエンフェルト(英語版)で対面したが、ナポレオンの妹カロリーヌや弟ジェロームをはじめナポレオン崇拝者の群衆が集い「ナポレオン万歳」と叫ぶ混乱となった。9月までのひと夏を母子水入らずで過ごし、またナイペルク伯にもよく懐いた。8月22日、ナポレオン・フランツは正式にライヒシュタット公に叙された。 パルマに戻ったマリア・ルイーゼは、1819年8月9日にはナイペルク伯爵の息子のヴィルヘルム・アルブレヒト(ドイツ語版) を生み、その夏も再び息子との面会の約束を破った。翌1820年夏に母子は再会し、この時はナイペルク伯は前妻との息子グスタフを同伴し、ナポレオン・フランツと賑やかに過ごした。 1821年5月5日、幼い時に別れたまま一度も再会することがなかった父ナポレオン1世がセントヘレナ島で逝去した。この知らせは7月13日にウィーンに届き、祖父フランツ1世の配慮により、家庭教師の一人フォレスチ大尉(Johann Baptist von Foresti)からナポレオン・フランツに伝えられると、父の死を知った少年は、机に伏して号泣した。ウィーン宮廷では、ライヒシュタット公のみが喪に服した。母マリー・ルイーゼ女公は7月16日に知らせを受けると、同月24日付で息子に、悲しみを共有し激励する手紙を送った。ナポレオン・フランツやその側近は、女公からの手紙に感激した。ところが同年8月8日、母マリー・ルイーゼとナイペルク伯は極秘裏に再婚(貴賤結婚)し、8月15日に女公は再びナイペルク伯の娘を出産した。さらに1823年に、マリア・ルイーゼはナイペルク伯爵との第4子を出産した。この間、1821年と1822年は、流産及び妊娠したこともあって、息子には会わなかった。
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