大使館附武官補佐官
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米国駐在を命じられ、1940年(昭和15年)1月26日に出発する。この日は日米通商航海条約が失効した日であり、すでに日米関係は緊迫していた。実松はプリンストン大学大学院で米国の歴史、政治を学ぶが、8月にはワシントンに設けられていた武官室勤務となり、11月に中佐に進級する。実松の補佐官時代は日米関係が悪化の度を加え、立花事件や「日新丸」の暗号書問題など様々な悶着が起き、遣独使節団の派遣やドイツから日本に提供された工作機械の輸送にあたる「浅香丸」のパナマ運河通過問題に際しては現地交渉を行った。このほか伊国海軍武官から英国海軍の秘密兵器の情報を入手し、電波探信兵器に対する準備が必要であると具申している。実松の後任予定者は中山定義であったが、海軍武官府は外交官資格を有しない者を米国外に分散させており、中山は短期間で南米に赴いている。実松は陸軍武官の磯田三郎、海軍武官の横山一郎らと野村吉三郎大使を補佐して最後の対米交渉に関わる。実松自身は著書『真珠湾までの365日』で「1941年(昭和16年)12月に「東の風、雨」という短波放送を受信して開戦を知り、暗号書、機密書類を処分したと証言しているが、このいわゆる「ウィンドメッセージ」の真偽については議論が分かれており、須藤眞志は外務省の暗号書・機械処分指示の公電との比較から辻褄が合わないと指摘しているほか、井口武夫は実松が野村大使にメッセージについて伝えた形跡がないことから「聞いていなかったとも思われる」と記している。現地時間の12月7日午前9時頃、出勤した実松は郵便受けに放置されている大量の電報を目撃した。この電報が「対米覚書」、すなわち日本政府の対米交渉打ち切り通告であったと実松は記しているが、複数の大使館関係者は事実と異なると指摘(公電は電信会社が直接配達し、大使館員が不在なら通知を残して持ち帰る慣習で、実際には実松の出勤前に当直担当者が受領していた)しており、実松は別の電報を誤認(直前に死去してこの日葬儀が営まれた新庄健吉に対する弔電とされる)したという反論を受けている。打ち切り通告のアメリカ国務省への手交は指定時刻に間に合わずに宣戦布告(最後通牒)は真珠湾攻撃後となった。これに関し、戦後の極東国際軍事裁判で対米通告の発信自体を意図的に遅らせたのではないかという追及に対して弁護側は現地大使館の処理に責任を負わせる弁明をおこなったが、実松の証言はそれを補強するものとして広く流布することとなったと井口武夫は指摘している。実松らは抑留され、交換船で帰還したのは翌年の8月20日である。
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