国道時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 03:45 UTC 版)
「オーバーシーズ・ハイウェイ」の記事における「国道時代」の解説
フロリダ・イーストコースト鉄道はオーバーシーズ鉄道の被害区間の再建を財務的理由で断念し、鉄道用地全体をフロリダ州に64万ドルで売却した。鉄道ルートが手に入ると、ORTBDは当初のハイウェイ計画を放棄し、代わって以前の鉄道用地沿いにロウワー・マテカム・キー(英語版)からリトル・トーチ・キー(英語版)までの区間に新ハイウェイを建設することにした。これは州道4A号線の2つのセグメントを効果的に接続するものであった。ハイウェイは鉄道時代の橋の多くを利用するもので、ハリケーンに耐え未だ良好な状態を保っていた。軌道を撤去した後、新たに自動車を通すための2車線幅、コンクリート舗装の道路へと改造された。トラス橋であるベイア・ホンダ鉄道橋(英語版)(バイーヤ・オンダ鉄道橋)の場合、コンクリート舗装はトラスの上に施工された。鉄道橋を道路橋に改造する工事はウェストパームビーチのクレアリ・ブラザーズ建設会社により行われた。 複数の区間は1954年4月15日まで有料道路だった;料金所はビッグ・パイン・キー(英語版)とロウワー・マテカム・キーに置かれていた。ピジョン・キー(英語版)(セブンマイル・ブリッジのほぼ中間)はORTBDの本部としての使われていた。 自動車の通行料は1ドルに乗員1名あたり25セントを加えた額だった。 本土からキーウェストへ至るハイウェイは公式に1938年3月29日全線開通し、アメリカ国道1号線(U.S. Highway 1)の最南端区間となった。国道1号線は従来マイアミ止まりだった(フロリダ州道4A号線は1945年の番号替え(英語版)で州道5号線となるまでは暗黙の呼称としては残存していた)。 全線開通時点ではオーバーシーズ・ハイウェイの内、旧鉄道路上を通っていたのはミドル・キーズのみだった。アッパーおよびロウワーキーズではオリジナルのハイウェイ区間が未だ使われていた。アメリカが第二次世界大戦に参戦するとアメリカ海軍は安全保障上の理由によりボカチカ・キーのキーウェスト海軍航空基地(英語版)から本土までのアクセスをよくするため、ハイウェイの改善を求めた。1920年代のロウワー・キーズ区間は理想とは程遠く、道は曲がりくねり木製の橋はぐらついていた。これが結局、フロリダキーズ全域の旧鉄道跡にハイウェイを完成させる動機となった。旧鉄道跡地は既に州が所有しており、高速で走行可能な緩やかなカーブを持ち、より直接的なルートだった。更にこの計画にはフロリダ市からジューフィシュ・クリーク橋(英語版)(先代:「18マイル・ストレッチ」として知られる)を経由してキーラーゴへ至るハイウェイの建設も含まれていた。新たな路線設定(alignment)は(公的には1944年5月16日に完成した)本土までの距離をおよそ27.2キロメートル短縮した。 旧カードサウンド橋はジューフィシュ・クリーク路線が開通した後閉鎖され、残っていた橋も火事で破壊された(カードサウンド・ルートは現行の橋が開通した1969年に第2ルートとして復元されている)。今日では幾つかの旧ハイウェイ区間は現在のハイウェイの側道(英語版)・支道として残っている。 キーラーゴからタヴァニア(英語版)へ至る旧ハイウェイは1970年代初頭、4車線に拡幅されたことで再びオーバーシーズ・ハイウェイの一部となった。拡幅された北側2車線が旧オーバーシーズ・ハイウェイである。 この拡幅はルートの多くを再構築するための更に大規模な計画の一部であった。この計画には経年劣化した旧鉄道橋(道路橋に改造されていた)を現代的な、すなわち2車線以上の車線を収容できる橋へと架け替える工事も含まれていた。架け替えられたのはセブンマイル・ブリッジ、ベイア・ホンダ鉄道橋およびロング・キー橋(英語版)(これら3橋の旧橋はセブンマイル・ブリッジの一部を除きもはや車の通行を認めていないが、1979年に国家歴史登録財となり、現在では釣り用桟橋として使われている)である。現代的な諸橋は1980年代初頭に完成した。近年ピジョン・キーはマイアミ大学の海洋学研究所として利用されてきたが、その島の建物を改修する動きは鉄道博物館の設立へと結実している。現行セブンマイル・ブリッジはピジョン・キーへ直通していないので、島へ行くにはナイツ・キー(英語版)の北端から旧セブンマイル・ブリッジを3.5キロメートル歩くかシャトルバスに乗らなければならない。
※この「国道時代」の解説は、「オーバーシーズ・ハイウェイ」の解説の一部です。
「国道時代」を含む「オーバーシーズ・ハイウェイ」の記事については、「オーバーシーズ・ハイウェイ」の概要を参照ください。
- 国道時代のページへのリンク