十月詔書とは? わかりやすく解説

十月詔書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 15:17 UTC 版)

十月詔書(じゅうがつしょうしょ、Октябрьский МанифестМанифест 17 октября)は、ロシア第一革命の混乱を収拾するために、1905年10月17日グレゴリオ暦10月30日)にロシア皇帝ニコライ2世の名によって出された詔勅詔書の起草は、セルゲイ・ヴィッテとアレクセイ・オボレンスキーの手による。正式名称は国家秩序の改良に関する詔書(Манифест об усовершенствовании государственного порядка)である。十月十七日詔書や、十月宣言ともいう。




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十月詔書

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セルゲイ・ウィッテ」の記事における「十月詔書」の解説

「十月詔書」も参照 ポーツマスより帰ったウィッテは、6月以降各地起こった農民騒擾ストライキ、ことにモスクワ始まったストライキ10月にはゼネスト発展するなど不穏な情勢にあるなか、革命揺れロシア国内収拾すべく行動した労働者ストライキについては、ブルジョアジー知識人もこれを支持しており、彼らに共通した政治的要求憲法制定会議召集さらには国会立法議会)の開設というものであったこの間暴動鎮圧するために帝国軍出動したのは、およそ2,000件におよんだ。しかし、皇帝はこの件については無反応無感覚で、愛息アレクセイをはじめ、家庭のことにかまけており、この年の秋、ほぼ毎日狩りをして過ごしたウィッテは、ロシア国家革命による大変動瀬戸際にあることを皇帝諭した10月ゼネストでは「ツァーリ退け」のスローガン各地叫ばれたが、これは、皇帝退陣専制君主制打倒とがロシア公然と唱えられ最初事例である。 10月時局打開の対応を上奏する機会得たウィッテは、ゼネストなど現下大混乱のもとでは、ひとつには改革断行すること、さもなくば軍人に独裁あたえて革命徹底的な弾圧加えること、そのいずれしかないニコライ2世二者択一迫った後者実際にロシア国内極右勢力主張していた見解そのものであったが、ウィッテ自身は、個人的に前者好し判断していた。ウィッテこうした思い切った行動出たのは、複数政府高官同調者がいたためであり、なかにはウィッテ自身改革のための出馬要請した人物もあった。皇帝は、ウィッテ進言に対しては必ずしも態度明らかにせず、ウィッテ本人大臣会議議長首相)に任命した希望述べ事態の収拾図ろうとした。軍事独裁に関しては、皇帝従叔父にあたるニコライ・ニコラエヴィチ大公唯一と言ってよい独裁者候補であったが、ニコライ・ニコラエヴィチ大公革命動乱軍事的に鎮圧するには現状では兵力不足であると明言し候補から降りたウィッテは、自身政治方針認められるであれば首相に就任することもやぶさかではないとして、事前にウィッテ案を審議するための御前会議開いてほしいと要請したその結果御前会議ではウィッテ改革案が採択された。しかし、ニコライ2世はこれを裁可せず、当日夜になって保守政治家イワン・ゴレムイキンとアレクサンドル・ブドベルク(ロシア語版)に相談し両名若干修正加えるよう進言した。それを聞いたウィッテは、無修正での承認なければ首相就任引き受けない言明した帝室にあって独裁者候補一時目されニコライ・ニコラエヴィチ大公もまたウィッテ案に賛成し、これに署名しなければ自ら死を選ぶとまで述べてニコライ2世署名促した。母のマリア皇太后また、皇帝譲歩促した結局ニコライ2世ウィッテの提唱する改革路線に従うほかなかった。 ウィッテ改革案は、民主的な選挙権行使通じて選ばれ立法議会帝国ドゥーマ)の創設市民的自由の付与内閣政府創設と「憲法秩序」の形成という内容であった自由主義改革政治プログラム基本に含むこれらの要求は、一面では、自由主義者宥めることによって政治的左翼孤立させようとする試みでもあった。ウィッテ弾圧一時的な解決方法にすぎず、危険なのであることを強調したというのも、彼は軍隊忠誠心そのものが今まさに問われているのであり、その軍隊大衆向けて使用されたとき、すべてが崩壊する事態さえありうる確信していたからであった皇帝軍事顧問もほとんどはウィッテ同意しサンクトペテルブルク総督アレクサンドル・トレポフ宮廷においてかなりの影響力行使した。 ところがプライドの高い皇帝は、元「鉄道書記官」で「実業家出身官僚によって専制的な統治放棄するよう強いられたことを恥辱感じていた。ウィッテ自身が後に語っているところによると、こうした皇帝周辺動向は、ニコライ2世宮廷一時的な譲歩として改革案を受け入れたにすぎず、革命騒ぎ収まれば再び「独裁に戻る」兆しだとみていた。 同月ウィッテとアレクセイ・ドミトリエヴィチ・オボレンスキー(ロシア語版)は「十月詔書」(十月宣言)を起草しそのなかで国会開設立憲君主制導入市民的自由などが宣言された。10月30日(露暦10月17日)、詔書皇帝の名で発せられ、人身不可侵また、ロシア史初め良心言論集会・結社の自由宣言された。予定されていたドゥーマ議会)の選挙については、多く国民参加できるようこれを改め、その性格アレクサンドル・ブルイギン内相の案のような諮問機関ではなく立法機関国会)とするなどの内容であったその結果ロシアにはヨーロッパ内閣にあたる統合合議制政府閣僚会議)が創設され最初議長にはウィッテ本人任命された。これは、事実上帝政ロシア初代首相であり、彼はその立場自由主義的改革推し進めたのであるウィッテはこうして第一次ロシア革命ひとまず収拾させたかにみえた。

※この「十月詔書」の解説は、「セルゲイ・ウィッテ」の解説の一部です。
「十月詔書」を含む「セルゲイ・ウィッテ」の記事については、「セルゲイ・ウィッテ」の概要を参照ください。

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