劉淵の時代とは? わかりやすく解説

劉淵の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 07:42 UTC 版)

陳元達」の記事における「劉淵の時代」の解説

304年同郷劉淵西晋左賢王になると、陳元達評判聞いて、同じ匈奴ということもあり、陳元達招聘した。しかし、陳元達はすぐに応じなかった。人々不審思って陳元達に「貴公はなぜ左賢王劉淵)の招聘応じないのか。それが無礼だ感じないのか」と言った。しかし陳元達は「左賢王大志持ったお方だ。問題はない、私が左賢王応じなかったのは、仕官する時期熟していないと思ったからだ。私は昔から左賢王知っているし、左賢王も私のことを理解なされている。多分2・3日後に、左賢王からの書状届け持参した使者が私のもとに派遣されるだろう」と言った当日夕方劉淵使者陳元達ところに派遣されて、彼を黄門侍郎任官する旨を伝えた人々驚愕し陳元達聖人なのか」と言いあった。 劉淵陳元達自分の下に来たことを喜び、すぐに面会した劉淵は「陳元達よ、そなたが早く私のもとに仕官していたら、今ごろ要職就けられただろうに」と言った陳元達は「私の考えとしては、人はさまざまの事情ありますその事情の条件適することが大事であり、それを満たないのは状況機会から反れしまいますたしかに私が早く仕官すれば、今ごろ左賢王さまから、九卿などの要職就けられたでしょう。しかし、現在の私はその任務にとても堪えられません。私はあえて左賢王さまからの招聘応じず、自分身分相応する官職があれば十分です。おかげで左賢王さまは私に過度官職任命せずに済みました。私はこれ以上官職は必要とはしません。左賢王さまとの関係が円満であれば十分です」と言った。これを聞いた劉淵大い満足して陳元達優遇した。以降陳元達劉淵のよき相談役となり、同年10月漢の建国大い貢献したこの後も、陳元達はたびたび献策行ったまた、勅書草稿仕上げたりもしたが、その内容劉淵の子弟が相手でも洩らすことがなかった。

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劉淵の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)

劉聡」の記事における「劉淵の時代」の解説

同年10月劉淵西晋から自立し漢王朝樹立した。後に劉聡は撫軍将軍任じられた。 308年1月劉淵の命により、劉聡は他の将軍10と共に各地対抗勢力討伐委ねられ南へ向かって太行山拠点構えた5月劉聡河東において西晋将軍北宮純らと争ったが、これに敗れた10月劉淵皇帝位に即くと、11月劉聡車騎大将軍任じられた。さらに12月には楚王封じられた。 309年4月頃、征夷大将軍王弥前鋒都督石勒と共に壷関侵攻した西晋并州刺史劉琨将軍黄粛・韓述に救援命じたが、劉聡は西澗において韓述軍を撃破し、その首級挙げた石勒もまた封田において黄粛を討ち取った東晋海王司馬越淮南内史王曠・将軍施融・曹超を派遣して劉聡を防がせた。劉聡太行山越えた所で敵軍遭遇すると、長平一帯交戦となったが、これに大勝して施融・曹超を戦死させた。劉聡遂に屯留長子攻略し討ち取る捕縛した数は1万9000人を越えた。これにより上党郡太守龐淳は戦意喪失し壷関ごと漢軍に降伏した同時期、劉琨新興郡割拠している匈奴鉄弗部劉虎討伐に向かうと、劉聡はその隙を突いて兵を繰り出し劉琨本拠地晋陽襲撃したが、攻略できなかった。 8月王弥と共に西晋首都洛陽攻略向かった司馬越平北将軍曹武・宋抽・彭黙らに迎撃させたが、劉聡はいずれ返り討ちにした。進軍続けて宜陽まで到ると、平昌公司将軍淳于定・呂毅らを、長安から劉聡討伐に向かわせたが、劉聡はこれも撃退した。だが、この連勝により劉聡は驕ってしまい、防備怠るようになった9月弘農郡太守垣延が偽って投降持ち掛けると、劉聡はこれを信用して陣営迎え入れた。だが、垣延は夜を待って奇襲仕掛けたので、劉聡大敗喫してしまい、軍を帰還させた。劉淵白服喪服)を着て劉聡迎えたという。 10月王弥始安劉曜汝陰劉景と共に精騎5万率いて再び洛陽攻略向かい大司空呼延翼後詰となった劉聡らが宜陽まで進出すると、晋朝廷は漢軍を二月前に撃退したばかりであったので、再び襲来するとは思っておらず、大い震えあがった劉聡らは河南において晋軍を打ち破ると、大きな抵抗受けず洛陽城下まで進軍し西明門の前に屯営した。その夜涼州将軍北宮純勇士1000余り率い護軍賈胤と共に夜襲掛けた大夏門において両軍交戦となったが、配下将軍呼延顥が討ち取られた事により軍は崩れ劉聡南方洛水に軍を後退させた。だが、呼延翼もまた部下反逆により殺されると、軍は総崩れとなり、劉聡はさらに後退余儀なくされた。 劉淵敗戦聞くと、勅書出して劉聡退却命じた。だが、劉聡は晋軍の脆弱さ主張し呼延顥・呼延翼戦死した程度退却するべきではないと訴え攻撃続行固く要請したので、劉淵はこれを許した司馬越籠城して守り固めた劉聡宣陽門進駐すると、劉曜上東門に、王弥広陽門に、劉景大夏門そにそれぞれ駐屯した。劉聡嵩山に登って神に勝利を祈願し、平晋将軍劉厲・冠軍将軍呼延朗に軍を統率させ、留守委ねた司馬越参軍孫詢は敵本陣に劉聡不在であることを知ると、司馬越へ漢軍を奇襲するよう勧めた司馬越はこれに同意し参軍孫詢・将軍丘光・裒らに勇士3000人を与えて攻撃命じた。孫詢らは宣陽門から出撃して漢軍を撃ち破ると、呼延朗の首級挙げた劉聡はこの報告聞く急いで戻ったが、劉厲は劉聡処罰されることを恐れて入水自殺した。 これを受けて王弥劉聡へ「今やすでに軍に利はありません。洛陽守備堅く輜重部隊は陝にあって糧食数日持ちません。殿下龍驤龍驤将軍劉曜と共に平陽帰還するべきです。糧を準備して兵を養い、後にまた挙兵しましょう下官王弥)もまた兵を収め糧を蓄え、兗・豫の地で命を待ちます。これが最良考えます」と進言した。劉聡以前命令拒んでまで洛陽攻撃継続した手前決断下す事が出来なかったが、劉淵黄門郎傅詢らを派遣して再度帰還促すと、遂に帰還を決断した。11月劉曜と共に平陽帰還した12月大司徒任じられた。 310年7月龍驤大将軍劉曜鎮軍将軍石勒・安北大将軍趙固平北大将軍王桑と共に河内侵攻し河内郡太守裴整の守る懐城を包囲した。やがて西晋の征将軍宋抽・冠軍将軍巨が救援到来するも、石勒王桑らが長陵において返り討ちにし、河内の民は裴整を捕らえて降伏した同月劉淵病床に伏すうになると、劉聡大司馬・大単于録尚書事任じられ後事託された。平陽の西には単于台胡人統治管轄する官署)が設置され、大単于である劉聡がその長官となった

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