劉淵の時代
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304年、同郷の劉淵が西晋の左賢王になると、陳元達の評判を聞いて、同じ匈奴ということもあり、陳元達を招聘した。しかし、陳元達はすぐに応じなかった。人々は不審に思って陳元達に「貴公はなぜ左賢王(劉淵)の招聘に応じないのか。それが無礼だと感じないのか」と言った。しかし陳元達は「左賢王は大志を持ったお方だ。問題はない、私が左賢王に応じなかったのは、仕官する時期が熟していないと思ったからだ。私は昔から左賢王を知っているし、左賢王も私のことを理解なされている。多分2・3日後に、左賢王からの書状届けを持参した使者が私のもとに派遣されるだろう」と言った。当日の夕方に劉淵の使者が陳元達のところに派遣されて、彼を黄門侍郎に任官する旨を伝えた。人々は驚愕し「陳元達は聖人なのか」と言いあった。 劉淵は陳元達が自分の下に来たことを喜び、すぐに面会した。劉淵は「陳元達よ、そなたが早く私のもとに仕官していたら、今ごろは要職に就けられただろうに」と言った。陳元達は「私の考えとしては、人はさまざまの事情があります。その事情の条件に適することが大事であり、それを満たないのは状況の機会から反れてしまいます。たしかに私が早く仕官すれば、今ごろは左賢王さまから、九卿などの要職に就けられたでしょう。しかし、現在の私はその任務にとても堪えられません。私はあえて左賢王さまからの招聘に応じず、自分の身分に相応する官職があれば十分です。おかげで左賢王さまは私に過度の官職を任命せずに済みました。私はこれ以上の官職は必要とはしません。左賢王さまとの関係が円満であれば十分です」と言った。これを聞いた劉淵は大いに満足して、陳元達を優遇した。以降も陳元達は劉淵のよき相談役となり、同年10月の漢の建国に大いに貢献した。この後も、陳元達はたびたび献策を行った。また、勅書の草稿を仕上げたりもしたが、その内容は劉淵の子弟が相手でも洩らすことがなかった。
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劉淵の時代
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同年10月、劉淵が西晋から自立し、漢王朝を樹立した。後に劉聡は撫軍将軍に任じられた。 308年1月、劉淵の命により、劉聡は他の将軍10人と共に各地の対抗勢力の討伐を委ねられ、南へ向かって太行山に拠点を構えた。 5月、劉聡は河東において西晋の将軍北宮純らと争ったが、これに敗れた。 10月、劉淵が皇帝位に即くと、11月に劉聡は車騎大将軍に任じられた。さらに12月には楚王に封じられた。 309年4月頃、征夷大将軍王弥・前鋒都督石勒と共に壷関へ侵攻した。西晋の并州刺史劉琨は将軍黄粛・韓述に救援を命じたが、劉聡は西澗において韓述軍を撃破し、その首級を挙げた。石勒もまた封田において黄粛を討ち取った。東晋の海王司馬越は淮南内史王曠・将軍施融・曹超を派遣して劉聡を防がせた。劉聡は太行山を越えた所で敵軍と遭遇すると、長平一帯で交戦となったが、これに大勝して施融・曹超を戦死させた。劉聡は遂に屯留・長子を攻略し、討ち取るか捕縛した数は1万9000人を越えた。これにより上党郡太守龐淳は戦意を喪失し、壷関ごと漢軍に降伏した。 同時期、劉琨が新興郡に割拠している匈奴鉄弗部の劉虎討伐に向かうと、劉聡はその隙を突いて兵を繰り出し、劉琨の本拠地晋陽を襲撃したが、攻略できなかった。 8月、王弥と共に西晋の首都洛陽攻略に向かった。司馬越は平北将軍曹武・宋抽・彭黙らに迎撃させたが、劉聡らはいずれも返り討ちにした。進軍を続けて宜陽まで到ると、平昌公司馬模は将軍淳于定・呂毅らを、長安から劉聡討伐に向かわせたが、劉聡はこれも撃退した。だが、この連勝により劉聡は驕ってしまい、防備を怠るようになった。9月、弘農郡太守垣延が偽って投降を持ち掛けると、劉聡はこれを信用して陣営に迎え入れた。だが、垣延は夜を待って奇襲を仕掛けたので、劉聡は大敗を喫してしまい、軍を帰還させた。劉淵は白服(喪服)を着て劉聡を迎えたという。 10月、王弥・始安王劉曜・汝陰王劉景らと共に精騎5万を率いて再び洛陽攻略に向かい、大司空呼延翼が後詰となった。劉聡らが宜陽まで進出すると、晋朝廷は漢軍を二月前に撃退したばかりであったので、再び襲来するとは思っておらず、大いに震えあがった。劉聡らは河南において晋軍を打ち破ると、大きな抵抗も受けずに洛陽城下まで進軍し、西明門の前に屯営した。その夜、涼州の将軍北宮純は勇士1000人余りを率い、護軍賈胤と共に夜襲を掛けた。大夏門において両軍は交戦となったが、配下の将軍呼延顥が討ち取られた事により軍は崩れ、劉聡は南方の洛水に軍を後退させた。だが、呼延翼もまた部下の反逆により殺されると、軍は総崩れとなり、劉聡はさらに後退を余儀なくされた。 劉淵は敗戦を聞くと、勅書を出して劉聡に退却を命じた。だが、劉聡は晋軍の脆弱さを主張し、呼延顥・呼延翼が戦死した程度で退却するべきではないと訴え、攻撃続行を固く要請したので、劉淵はこれを許した。司馬越は籠城して守りを固めた。 劉聡は宣陽門に進駐すると、劉曜は上東門に、王弥は広陽門に、劉景は大夏門そにそれぞれ駐屯した。劉聡は嵩山に登って神に勝利を祈願し、平晋将軍劉厲・冠軍将軍呼延朗に軍を統率させ、留守を委ねた。 司馬越の参軍孫詢は敵本陣に劉聡が不在であることを知ると、司馬越へ漢軍を奇襲するよう勧めた。司馬越はこれに同意し、参軍孫詢・将軍丘光・楼裒らに勇士3000人を与えて攻撃を命じた。孫詢らは宣陽門から出撃して漢軍を撃ち破ると、呼延朗の首級を挙げた。劉聡はこの報告を聞くと急いで戻ったが、劉厲は劉聡に処罰されることを恐れて入水自殺した。 これを受けて王弥は劉聡へ「今やすでに軍に利はありません。洛陽の守備も堅く、輜重部隊は陝にあって糧食は数日と持ちません。殿下は龍驤(龍驤将軍劉曜)と共に平陽に帰還するべきです。糧を準備して兵を養い、後にまた挙兵しましょう。下官(王弥)もまた兵を収め糧を蓄え、兗・豫の地で命を待ちます。これが最良と考えます」と進言した。劉聡は以前に命令を拒んでまで洛陽攻撃を継続した手前、決断を下す事が出来なかったが、劉淵が黄門郎傅詢らを派遣して再度帰還を促すと、遂に帰還を決断した。11月、劉曜と共に平陽を帰還した。 12月、大司徒に任じられた。 310年7月、龍驤大将軍劉曜・鎮軍将軍石勒・安北大将軍趙固・平北大将軍王桑と共に河内へ侵攻し、河内郡太守裴整の守る懐城を包囲した。やがて西晋の征虜将軍宋抽・冠軍将軍梁巨が救援に到来するも、石勒・王桑らが長陵において返り討ちにし、河内の民は裴整を捕らえて降伏した。 同月、劉淵は病床に伏すようになると、劉聡は大司馬・大単于・録尚書事に任じられ、後事を託された。平陽の西には単于台(胡人の統治を管轄する官署)が設置され、大単于である劉聡がその長官となった。
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