分派の粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 03:30 UTC 版)
「公安委員会 (フランス革命)」の記事における「分派の粛清」の解説
しかしながらフリメール14日法の定義した独裁機構には一つ問題があった。治安・警察行政に関してだけは保安委員会に強力な権限を与えていたのである。実際、公安委員会独裁に対抗できる組織がまだフランスには二つあって、一つが保安委員会、もう一つは革命裁判所であった。これらは恐怖政治の実行面の主役であり、警察権と特別司法権なくして恐怖政治を行えないのであるから、権限を与えないわけにはいかなかったのである。特に保安委員会は、事実上の二頭政治体制の一角というべきほどの機構で、12月〜4月までの間は公安と保安の両委員会が革命の両輪だった。 このような状態が放置されたのは、汚職問題で尻に火がついたダントン派の面々が攻勢にでて、エベール派との争いを激化させたためで、いよいよジャコバン分派の粛清が現実味を帯びたからである。この対立は一年以上も革命を停滞させていた。ダントン派は激しくエベール派の恐怖政治を攻撃して批判し、一方でエベール派もコロー・デルボワの助力を得て応戦して汚職を非難した。ロベスピエールはこの争いに距離を置いていたが、恐怖政治批判が公安委員会批判となることは許さなかった。デュゴミエ将軍がトゥーロンを奪還した報せがパリに届いた12月23日、彼は革命政府の戦時有効性と、恐怖政治の正当性を弁論した。ヴァンデの反乱軍が決定的な敗北を喫した報せも相次いで届くと、公安委員会の立場はもはや強固なものとなり、ダントン派の恐怖政治中止の企ては完全に失敗した。しかしダントン派はそれらの勝利があるなら戦争を終えようと「講和の鐘が鳴った」と早期終戦を求めた。恐怖政治は戦争の続く限り続けられるとされていたからだ。ところがこの考えにはバレールら平原派も反対した。内戦にはめどがたったが、まだ対仏大同盟諸国との戦争はこれからだったからである。しかし後の1794年6月26日のフルリュス会戦 (Battle of Fleurus) の勝利の後にはこの言い訳は通用しなくなる。戦争はフランスの勝利で終わる公算が大きくなった。 1794年の早春は再び飢饉が危惧された。特にパリ近郊では(民衆の略奪以外にも)革命軍が食料徴発隊と化して没収と平等分配をしたため、農民はパリに作物を出荷するのを嫌って避けるようになり、物資不足に拍車がかかった。エベール派(およびコルドリエ派連合)はこれに勢いを得て、3月頃から「神聖な蜂起」と呼ばれる運動を始めた。彼らは両委員会も公会も信用しなかった。しかしこの公然たる反政府運動に対して、サン=ジュストがそれより前に経済テロルの新方針たるヴァントーズ法を成立させていたので、サン・キュロットが敵の極左派のもとに結集するのを阻止できた。両委員会の決定により1794年3月13日〜14日にかけてエベール派が逮捕された。極左の失墜の反動で右派が勢力を増さないように、ダントン派への追及も始まった。彼らの何人かは確実に汚職に手を染めていたので、これは簡単だった。ただ愛国者と常に庇ってきた盟友ダントンを手にかけることだけがロベスピエールを躊躇させたようである。3月30日、ダントンは逮捕された。 詳細は「恐怖政治」および「ヴァントーズ法」を参照 反対派をすべて葬り去った両委員会は本当の独裁を始めた。民主主義はなく官僚組織があるだけだった。しかしサン=ジュストは手をゆるめなかった。曰く「革命は凍りついた。一切の原則は弱くなった。残っているものは赤帽子をかぶった陰謀である」 4月16日、サン=ジュストは一般警察に関する法令(ジェルミナル27日法)を可決させ、公安委員会に治安局Bureau de Police générale(一般警察局とも訳す)を設けた。この機関は公務員を監査して陰謀や職権乱用を摘発するためのもので、直接的な権限を公安委員会に与えるものであり、逮捕命令は公安委員の1人の署名ともう1人の副署だけで効力を持った。指揮権はロベスピエール派のマルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマン (fr:Martial Joseph Armand Herman) に握られ、多くが何らかの腐敗に関与していた国民公会議員は内心では震え上がった。他方、治安局の存在は、警察権を持つ保安委員会の領分を犯し蔑ろにするものであって、両委員会の反目の火種にもなった。保安委員会はヴァントーズ法の施行に抵抗し、非協力的態度で実施を延期させ続けた。 公安委員会は、強大な権限を派遣議員から取り上げようともした。もはや派遣議員という代理人は必要としなかったからだ。これまでも山岳派内部の不和と腐敗は地方ではもっと顕著で、様々な理由で地方に下った派遣議員は、先に来た者、後から来た者、各々が勝手に方針を変え、強権を振るい、しばしば対立することがあった。公安委員会はこれらの地方の混乱を収拾するために彼ら双方を召還して説明させる必要があった。派遣議員が作った特別法廷は廃止され、地方の特別裁判所もパリの革命裁判所に従属させるように4月16日に決められた。容疑者をパリに送るように指示があった。 しかしエベール派とダントン派が粛清された後になっては、特に6月10日のプレリアール22日法の制定後では、召還は処刑の前段階と理解された。というのも派遣議員の何人かはこれらの派閥に属していたからである。彼らは弁明の機会無く処刑されるのではないかと恐れ、黙って殺されるよりは反撃する方を選んだ。結局のところ「共和国の敵のすべては共和国政府のなかにいる」というサン=ジュストの主張はある意味では正しかったが、恐怖政治は人民の純化とならなかったという点で結論は間違っていた。人々の諍いと対立、猜疑心はますます激しくなり、革命的精神に殉じることよりも生存本能が優ったのは自然の成り行きだった。 公安委員会の側から見て、クーデターの背景として指摘されるのは、コロー・デルボワとビヨー=ヴァレンヌという二人のより強硬な左派との亀裂と、さらには平原派のリーダー格で、影の首相とも言うべき立場であったバレールが、いわゆる"凍りついた革命"を見限ったことで、同じく中道的な3委員の賛同が得られなくなったことにあったといえる。分裂した公安委員会は力を行使できなくなり、権力の空白が生まれた。「政治の唯一の動力」たる国民公会に頼るしかなくなったわけであるが、少数派であるロベスピエール派は、多数の反対派が巣くう国民公会で演説して支持を得なくてはならないという苦しい立場に追いやられた。エベール派の粛清後、自治市会のほとんどの地区もすでに官僚で占められて弱体化されていたので、凍りついたパリは冷淡だった。ロベスピエールやサン=ジュストが、同じ公安委員のカルノーやコロー・デルボワ、ビヨー=ヴァレンヌらに「独裁者」との不当な中傷をうけても、彼らは酷く孤立してどこからも支援が得られなかった。もう一人の同派の委員クートンは満足に動けないほどすでに重病だった。1794年6月11日、ロベスピエールは反対にあって孤立した公安委員会から一言もいわずに去った。一旦は復帰するが、7月3日以後、彼は一度も会合に出席しなかった。同じ頃に派遣から帰還したサン=ジュストは同派の孤立を知り、7月26日にコロー・デルボワと協議をしたが、結局、物別れに終わった。ロベスピエールは、影響下にあるペイヤンのコミューン総会を動かし、アンリオ (François Hanriot) の国民衛兵隊を動員して武装蜂起することはできたが、そのような非合法なクーデターを彼は最後まで好まなかった。 詳細は「テルミドールのクーデター」を参照
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