公安委員会 (フランス革命)
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公安委員会(こうあんいいんかい、仏: Comité de salut public)は、革命期のフランスに1793年4月7日から1795年11月4日まで存在した統治機構で、途中1794年7月27日までは事実上の革命政府[注釈 1]。会議場はテュイルリー宮殿に隣接する
注釈
- ^ ここでいう「革命政府」は三権が必要から未分離とされていて、(マチエの師である)革命史家オーラールの定義によれば、立法権と行政権の混同がある政府という意味である。[1]”事実上”とするのは革命政治家たちが臨時政府と公式に認めるのを嫌ったため。(後述)彼らは国民公会こそが唯一の政治動力であるとして、公安委員会はその「腕」に過ぎないとした。政府委員会などいう表現もある
- ^ a b 公安委員会は、テュイルリー宮殿とルーヴル宮殿を結ぶセーヌ川沿いの南区画であるフロール館 (Pavillon de Flore) に設置されていた。現在はテュイルリー宮殿が焼失したため、庭園に面したルーヴル美術館の翼部のようになっているが、ここはもともとアンリ4世が増築した別館部分で、奇しくもヴェルサイユ行進で連れてこられた後にはマリー・アントワネットの住居であった。またナポレオン1世も短い期間だが利用した。なお国民公会自身も宮殿の敷地内(反対側の室内馬術練習場)にあったが、他の常設委員会も宮殿内の別区画にあった
- ^ "Despotisme de la liberté" 法案提出時に賛意を示したマラーの言葉。[2]
- ^ ダントンの言葉。[3]
- ^ 恐怖政治そのものについての説明はここではしないが、恐怖政治はもともと公安委員会への圧力であり、大衆とそれに迎合したエベール派の要求であった。公安委員会は恐怖政治を実現する機関の一つとなるが、それには紆余曲折があった
- ^ 署名の数はもっと多いが、いくつかは判別できないサインがある。(保安委員バランの上の署名はプリュールか?)公安委員会と保安委員会はしばしばこのような問題では合同会議を開いたが、当時、パリにいた公安委員は9名ほどと見られ、会議に参加したメンバーでは、公安委員ロベール・ランデと保安委員リュールの二人がダントン派逮捕に反対して署名を拒否した、と伝えられる。[4]
- ^ 人民主権の最大の危険は個別利益の追求によって権限が奪われることであるとされていた。[5]
- ^ マチエが独裁ではなかったと例外とするのを認めたのは、三権分立の憲法が機能していた立法議会初期のごく短い期間のみ
- ^ 国民公会の常任委員会は1793年当初は21もあった。内訳は、憲法委員会、外交委員会、戦争(陸軍)委員会、保安委員会、立法委員会、公教育委員会、財政委員会、法令委員会、陳情書・通信委員会、議場委員会、議事録委員会、公的救護委員会、地方行政委員会、農業委員会、商業委員会、土地財産委員会、清算委員会、決算監査委員会、海軍委員会、植民委員会、古文書委員会。これらは廃止されたり統合されたりするが、さらに新しく創設された公安委員会などが加わる。公安委員会が他の常設委員会よりも優越的な地位であることが決まったのは1793年9月13日の公会の議決による。すべての委員会の委員は公会が指名し、(上部組織への出向を除き)兼任は基本的に禁止されていた
- ^ 秘密会議とされたのは外野の干渉を避けるためで、公開にして政治アピールの場とかした後述の国防委員会の反省から
- ^ a b 警察権は主に保安委員会 (fr:Comité de sûreté générale) が管轄していた。後に1793年7月28日の法令で公安委員会を強化する目的で、嫌疑者の拘引する命令を発する権限だけは同委員会にも与えられることになったが、治安・警察に関する広範囲な権限は依然として保安委員会が持っていた。つまり事実上は両委員会の二元支配となっていたわけで、この権限争いがテルミドールのクーデターの一因となっている。1794年4月16日、ジェルミナル27日の法令で公安委員会にも逮捕権(告発権と予審権)が与えられ、両者の争いは一層激しくなった。なお保安委員会は治安委員会とも訳される
- ^ つまり9人制の場合は最低でも6人以上の会議で4人以上、14人制の場合は最低でも9人以上の会議で5人以上、12人制の場合は最低でも8人以上の会議で5人以上、11人制の場合は7人以上の会議で最低でも4人以上の委員の賛意と署名が必要とされた。これは公安委員会のメンバー構成上、どの派閥も単独ではいかなる決定もできなかったことを意味する。強権を持ちながらも常に協議と妥協をしいられた。ロベスピエールが何かにつけて公会やクラブで演説したのは、他の委員を説得するために人民の支持と後押しを必要としたため
- ^ または言葉のあや。ロベスピエールは大公安委員会の首班的地位であり、独裁政権の責任者だったのではあるが、説明のように一人で何でも決めることができたわけではないし、特別な権限を持っていたわけでもない。彼の持っていたものは人民への影響力という見えざる力だけだった。ロベスピエール独裁といった場合、委員会独裁を人格化したに過ぎず、誤解を招く
- ^ 公安委員会の委員は大臣よりも上位の権限を持っていた。これは従来の大臣制度が貴族的なものと見なされて嫌悪されたことに原因があり、この感覚は革命時独特のもの。大臣を監視する民衆代表の位置づけが公安委員であったが、公安委員自身に強い権限が与えられたので、公安委員が事実上の大臣に、大臣が格下げされて事実上の省庁長官になるというような構造になった
- ^ アンラジェやエベール派が粛清されたことから極左勢力は山岳派主流派を恨んでおり、一部の地区はテルミドールのクーデターのときに支持を見送った。特にグラヴィリエ地区は最左翼であったが、反ロベスピエールに決定的な役割を果たした
- ^ 国民公会には、議会を守る公会親衛隊(Garde de la Convention)という組織があったが、公会の一機関である公安委員会には、これに相当するものはなかった。公安委員会には上記の権限を行使するために治安局に若干の警察官吏がいただけ
- ^ 公安委員自身が最前線にいるときや、最前線からの報告を受けた時に限られる。戦略方針の決定は公安委員会の主要な役割の一つで、下部組織・地形測量局が戦略分析を行っていた
- ^ 反革命容疑者法に指定されているように、これを管轄して執行するのは保安委員会や監察革命委員会(革命委員会と後に改称)であり、革命軍(民兵組織のこと)にも同様の権限があった。前述のようにその後には公安委員会にも拘引・逮捕の権限も付与されたが、実務的には公安委員会が命じた場合においても、警察活動は保安委員会か革命軍を介して行われた。監視委員会はまさに革命の秘密警察と言うべき組織で、思想弾圧やスパイのようなことをしていた
- ^ 恐怖政治の犠牲者の生き死にを実際に決めていたのは、革命裁判所と検事、およびその陪審員団である。弁護士も証拠も途中から必要なくなったため、判決は主に陪審の心証に依存した
- ^ 後述するが、恐怖政治を最初に予言したのはマラーであり、政局として要望したのは(マラーと同じくコルドリエ派の流れを汲む)エベール派で、特に後者はロベスピエールの政敵であった。恐怖政治の到来は内戦勃発と深い関係がある
- ^ 「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」 歴史学者J・E・アクトンの言葉
- ^ 議会が解散し、再選挙がある予定であったため
- ^ 司法、内務、外務、海軍、戦争(陸軍)、財務(公共租税)の6大臣
- ^ もともとブルボン王政時代からフランスには首相や内閣などという制度はなく、各部門別の国務会議とそれを総合する最高国務会議があるだけで、つまり国王の親政を前提にした国体であった。1791年憲法の結果として大臣制度が誕生したが、イギリスなどと違って首相に相当する地位はなく、当時のフランスにおける総理大臣は大臣の欠員がでた際に兼務できる大臣のことで、大臣同士は対等な関係であった。このため国王存在がなくなると、中心がなくなり、強いリーダーシップを発揮できない構造だった
- ^ 当時のイギリスは、現在と違って、ウィンザー家のもともとの領地であるハノーヴァーやオスナブリュック大司教領など大陸に領土を持っていた。またオランダも歴史的に関係の深い主要な交易相手として権益が絡む国であり、フランス軍の直接の脅威からこれらを守るために、イギリスは大陸に軍隊を派遣することになった
- ^ 戦争(陸軍)委員会、財政委員会、植民委員会、海軍委員会、憲法委員会、外交委員会の6つ。1月31日に陳情書・通信委員会がこれに加わった
- ^ a b 平原派の代表的政治家。カメレオンの渾名を持ち、時期によって政治信条が異なるが、シェイエスなどと共に革命の全期で活躍した
- ^ 25名の議員の内訳は、デュボワ=クランセ (fr:Dubois-Crancé) 、ペティヨン (fr:Pétion) 、ダントン、ジャンソネ (fr:Gensonné) 、シェイエス、ギュイトン=モルヴォー (fr:Guyton-Morveau) 、M・ロベスピエール、バルバルー (fr:Barbaroux) 、リュール (fr:Rühl) 、ヴェルニョー (fr:Vergniaud) 、ファーブル・デグランティーヌ (fr:Fabre d'Églantine) 、ビュゾー、デルマ (Delmas) 、ガデ (fr:Guadet) 、コンドルセ (fr:Condorcet) 、ブレアール、カミュ (fr:Camus) 、プリュール・ド・ラ・マルヌ (fr:Prieur de la Marne) 、カミーユ・デムーラン、バレール、ジャン・デブリ (fr:Debry) 、イスナール、ラズルス (fr:Lasource) 、キネット (fr:Quinette) 、カンバセレス。山岳派とジロンド派、平原派、つまり左右中道それぞれ、マラーとブリッソーを除く主要政治家のほとんどが含まれていた
- ^ 元外相で、北方軍司令官であったデュムーリエ将軍はオルレアニストで、国王処刑を革命の行き過ぎと判断し、パリに進撃してジャコバン派を一掃して王権を回復する陰謀を企てていた。彼は敵司令官と勝手に交渉し、公会が派遣した議員と戦争大臣を拘束して引き渡した。軍をパリに向けようとしたが、兵士に拒否され、部下のダヴー大佐に逮捕されそうになって、慌ててオーストリア軍に亡命した
- ^ ちなみに戦争大臣(Ministres de la guerre)というのはフランス独特の表現で、陸軍大臣と同義。1930年代までフランスではこの表現だったが、現在は国防大臣(Ministre de la Défense)と名称が変わっている
- ^ ジロンド派の政治家。後に同派の没落を決定づける失言をしたことで知られる
- ^ イスナールは最初これを「執行委員会(行政委員会)」と名付けようとした。新委員会は独裁的強権を持つ行政府のようなものとして想起された
- ^ 同姓の議員と区別して通称ブレアール=デュプレシーとも言う。
- ^ 山岳派の政治家。非常に似た名前の兄がいるが、一般にこちらの有名な弟をロベール・ランデ、兄をトマ(トマス)・ランデと言う
- ^ ダントン派の政治家。ロマン派の画家で有名なウジェーヌ・ドラクロワの父親。「ド」は定冠詞のため、ラクロワとも表記する
- ^ マチエはほぼ断定的にダントンはデュムーリエの陰謀に荷担していたとしている。[12]
- ^ 前身は特別委員会。山岳派の独壇場だった保安委員会を抑えるために創られたが、結果的にはエベール派などに扇動されたサン・キュロット民兵の蜂起を誘発した
- ^ a b 名門貴族出身で、フンヤン→ジロンド→山岳派と党派を渡り歩いた政治家。享楽的な人物として知られる。外交で秘密任務に携わっていたことから裏切りの疑惑が持ち上がり、別の亡命貴族を匿った容疑で逮捕された。公安委員を辞任したが、公会では受理されなかった。平等主義者で、厳密にはダントン派ではないもっと左の政治信条であったが、ダントン派と一緒に処刑された
- ^ ただしロベール・ランデは一旦は辞めるが、6月22日にマテューに代わって復帰した
- ^ 6月27日、フランソワ=レネ=オーギュスタン・マラルメも公安委員に指名されたが、実際に委員会には加わらなかった。同様に7月4日にトマ・ランデ(ロベール・ランデの兄)、ジャン・ミケル・デュ・ロイ、ジャン=マリー・アドリエン・フランカステルの3名も指名されたが、委員会に参加することはなかった
- ^ 山岳派右派で、いくつかの点では対立したがもともとはジロンド派と考え方が近いグループだった。右派として、買い占め人の処刑や一般最高価格法などアンラジェやエベール派が主張した極左政策には反対した。また対外的にも和平交渉を支持し、恐怖政治の終了を志向していた
- ^ 10月3日の保安委員アマール (fr:Jean-Pierre-André Amar) の報告をもって処分が決定し、ジロンド派とされた41名は革命裁判所に送られ、その中核の21名は死刑となり1名は執行前に自殺した。ただし残りは無罪になった。すでに逃亡していたジロンド派の19名は法の保護の外におかれ、元内相のロランなどは妻の死を知って自殺したが、残りもほとんどが悲惨な最期を遂げた。6月2日の非合法な民衆の武装蜂起への抗議書に署名した76名は逮捕状が出されたがロベスピエールによって免除されて、ギロチンから救われた。[14]
- ^ 山岳派の政治家。海軍担当であったので西部や南部の軍港の視察にでかけてほとんどパリにはいなかった
- ^ ダントン派の政治家だが、公安委員の辞任後は沈黙を守って粛清を逃れた。テルミドールのクーデタでは反ロベスピエール派として再び活動する
- ^ 特にジロンド派追放後の処刑に対してダントンは抵抗した。権力をつかんだ山岳派は、ジロンド派の粛清を肯定する必要があったため、不法な蜂起を弁護して法をねじ曲げたが、左派の台頭に苦しむことになる
- ^ キュスティーヌ将軍の不当な逮捕に抗議したもの。ガスパランは委員の中では唯一の元軍人であったため、後述のカルノーらの追加が必要になった
- ^ アンラジェは「怒れる人々」という意味で、よって激昂派とも言う。彼らは議席を一つも持たず、パリのグラヴィリエ地区など数地区で支持されただけの最小グループであったが、極めて過激な主張をしたことで有名
- ^ 「買い占め人」と彼らが呼ぶブルジョワ商人の処刑や、銀行家すべての逮捕、アッシニヤ紙幣の不換紙幣化、一般最高価格法または購入者による商品の価格設定という極端な価格統制、汚職議員の追求、土地均分法ほか。その後、これらの政策の一部はエベール派によって継承されたが、両者はこの頃に暗殺されたマラーの後継者を巡って犬猿の仲。議会外勢力で国民公会そのものを批判し攻撃した
- ^ 前年の8月10日事件を記念する大連盟祭のこと。7月14日の革命祭から全国から人が集まってきていたため、食糧難が一層深刻化するのではないかと懸念が高まった。ちなみにこの日の祭典ではルーヴル美術館の開館式も行われ、1793年憲法の成立も宣言された。(実施に関しては後述) ダントン派はこの祝祭を恩赦の好機と考えて、追放されたジロンド派に大赦を与えるように策動したが、拒否された。地方からやってきた連盟兵(穏健派が多いと思われていた)がこの動議に賛成しないか警戒され、監視委員会が厳しく監視した
- ^ ロベスピエールは8月5日、ヴァンサン (fr:Vincent) を批判し、7〜8日にジャコバン・クラブで演説してアンラジェを攻撃した。これで大衆の支持と喝采をうけてクラブ議長に就任すると、さらに逮捕に向けてジャック・ルーやテオフィル・ルクレール (fr:Théophile Leclerc) などを調査をするように保安委員会に依頼した。彼らは22、23日にでっち上げの口実で逮捕された
- ^ 元来の姓は、プリュール=デュベルノワだが、プリュールという同姓の議員がかなりいるため、区別する意味で出身県のコートドール県を名前につけた通称で呼ばれる。これは前出のプリュール・ド・ラ・マルヌも同じで彼はマルヌ県出身
- ^ 公安委員会の部局の一つで、軍務に関する広範囲の職務に当たる。サン=ジュストが委員になる前に開設して主導していたが、彼は派遣委員となって不在がちとなったので、カルノーが委員になって管轄し、専門家を招いて部署を拡大させて本格的な戦時体制をフランスに実現させた
- ^ もう一人はフランソワ=オメール・グレネー (fr:François Omer Granet) 。彼も辞退した。国民公会は中道や右派の議員の方が数が多く、委員会が極端に左傾化するのを嫌って、左派の多くが派遣議員で前線に送られて不在を良いことに、事あるごとに右派の委員を指名しようとした
- ^ ダントンは委員となる資格を十分に持っていたが、後述の8月1日の臨時政府昇格への動議の際に中傷されたことから、公安委員会の委員の席には二度と着かないとダントン本人が誓いを立てていたためと、ロベスピエールとの確執があったからとも言われる
- ^ 老兵ウーシャール将軍 (fr:Jean Nicolas Houchard) の解任と、革命裁判所送りに抗議したもの
- ^ 狭義では、ロベスピエールが委員となった7月27日ではなく、彼が正式にリーダーとなった9月25日から翌年7月27日までがロベスピエールの大公安委員会ということになる
- ^ エローは不用意にもスパイであったプロリ (fr:Berthold Proly) を秘書として雇っていたため、公安委員会の内実は外国に筒抜けだった。自身も汚職の嫌疑をかけられていたファーブル・デクランティーヌの告発により明らかになったこのスキャンダルで、彼は一切の信用を失う
- ^ 厳密には臨時政府委員会(Comité de gouvernement provisoire)と名付けるべきとした
- ^ この頃には連邦派として裏切り者呼ばわりされていた
- ^ 前述の八月十日祭に参加するために地方から集まっていた志願兵の集団。穏健派が多いのではないかという当初の心配をよそに、内戦を鎮圧したいという要求が強く、国民総動員令などを可決して兵力増強されることを切に願い、恐怖政治と独裁強化を後押しした
- ^ これは強制募兵制度で徴兵制とは異なり、ヴァンデの反乱を引き起こした30万人募兵令とも別。臨時に無制限の召集を可能にする極端な国民皆兵の国民総動員令案で、国内には不満も多かった。毎年、一定年齢の一定数を召集する徴兵制がフランスに導入されるのは1798年のジュールダン法成立以後。詳細は国民総動員令とジュールダン法を参照
- ^ 1793年憲法第61〜63条。もし実施されていれば公安委員会政府の解体を意味したが、どのような候補が生まれて誰を公会が選ぶかは未知数で、エベール派に多い行き当たりばったりの動議。いずれにしても緊急時に権力を空白とする危険があった。[18]
- ^ a b もともとはマラーの言葉の引用。ここでは恐怖政治の開始を意味する。[19]
- ^ このときにブルジョワ出身者を中心にする裁判長、検事、陪審が刷新されるまでは、革命裁判所は審議は遅々たる速度で、逮捕したほとんども釈放していた
- ^ ファーブル・デグランティーヌやシャボ (fr:François Chabot) らを筆頭に、これらの人々は外国勢力との汚職(東インド会社汚職事件)に関与していた
- ^ 地方、つまり県の行政は、これまでは完全な地方分権であったが、県行政機関は穏健派で占められていて、ジロンド派追放に反対して反革命に回るところが少なくなかったことから、これを解体して直接の統制下に置き、行政の末端まで人事を刷新して、統一的指導を回復させる必要があった
- ^ ラザール・カルノーの息子にしてサディ・カルノーの弟。政治家、歴史・社会学者。
- ^ これらの話はマチエの師であったオーラールの学説にも準じるもの
- ^ 代表的なのはフーシェ、カリエ、コロー・デルボワ、タリアンなど
- ^ 自由と書かれた革命を象徴するフリジア帽がさりげなく逆十字にかけられ反キリストを暗示している。奥には裁判制度を意味する天秤も無造作に死体とともにつりさげられ、ギロチンの上にはためく旗にはエガリテ(平等)の文字
- ^ サン=ジュストの論説の特徴は、大臣・軍人・官僚を徹底的に不信の目で見ていたことである。「人民もときに間違うが、個人ほどは間違わない」というのが彼の理屈で、人民の監視を強調していた。しかし彼は人民そのものも腐敗と欺瞞が蝕むことを予想し、「各部分の悪が全体に影響を及ぼす」と懸念していた
- ^ 内務、公教育、農業、商業、建設、公的救護、運輸、財政、戦争、海軍、軍需、外交の12部門
- ^ 奪回したのは12月18日だったが、報せが届いたのがちょうどこのときだった。トゥーロン攻囲戦ではロベスピエールの弟オーギュスタン・ロベスピエールも監察に派遣されていたが、フランス国土が直接に外国軍の侵入を受けただけに政府の一大関心事だった
- ^ 12月12日〜13日に行われたル・マン会戦 (Battle of Le Mans) と23日のサヴェニー会戦 (Battle of Savenay) のことで、ロワール川を北に渡ったカトリック王党軍はグランビル港の攻略に失敗して飢餓状態で戻ってきたところを共和国軍に各個撃破されて壊滅した
- ^ 元検事で裁判官を歴任後、革命裁判所の裁判長となり権勢をふるった。(正式な内務大臣は別にいたが)4月中旬からは事実上の内務大臣のように振る舞い、治安局を指揮した。テルミドール反動で逮捕され、フーキエ・タンヴィルらとともに処刑された。
- ^ 極左の公安委員である彼らは次の粛清対象は当然自分たちだと信じた
- ^ バレールは公安委員会命令に最も多く署名した委員である
- ^ 総裁となるバラスの相方の元派遣議員で、カミーユ・デムーランの親友として知られるダントン派。金ぴか青年隊の隊長となって左派に報復をした
- ^ 内務、外務、戦争、海軍、司法、大蔵、警察
- ^ ルイ・ブランやジョレスの名を冠した地下鉄駅もある
- ^ パリ大学のフランス革命史講座の初代担当教授。ブルジョワ共和主義史観の人
- ^ 個人の自由と平等のこと。「1789年の理想」ともいう
- ^ フランス国立科学研究センターの主任研究員。歴史/政治哲学者
出典
- ^ a b 猪木正道 & 前川貞次郎 1957, pp.186-188
- ^ fr:Le Moniteur, XV, pp. 21-26
- ^ 河野健二 1989, pp.298-299
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (下)p.240
- ^ フュレ & オズーフ 1999, pp.33-34
- ^ Mathiez, A. (1929), “La Révolution française et la théorie de la dictature”, Revue historique, LIV
- ^ a b c 河野健二 1989, pp.342-343
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (下)p.58
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (下)p.315
- ^ フュレ & オズーフ 1999, p.192
- ^ 河野健二 1989, pp.294-298
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (中)pp.243-255
- ^ フュレ & オズーフ 1999, p.189
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, p.108, pp.133-134
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (下)p.49
- ^ a b 猪木正道 & 前川貞次郎 1957, p.185
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (下)p.67
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (下)p.77
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (下)p.78
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (下)p.38
- ^ 河野健二 1989, pp.396-404
- ^ 猪木正道 & 前川貞次郎 1957, p.191
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (下)p.220
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, (下)p.248
- ^ 小林 1969, pp.431-441
- ^ 河野健二 1989, p.415
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