8月10日事件
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8月10日事件(はちがつとおかじけん、仏: Journée du 10 août 1792)は、フランス革命期の1792年8月10日、パリで民衆と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃してルイ16世やマリー・アントワネットら国王一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した事件である。テュイルリー宮殿襲撃(仏: Prise des Tuileries)とも言う。
注釈
- ^ 歴史家マチエらは第2革命として定義した
- ^ ヴァレンヌ事件以後、公の政治活動が事実上停止されていたルイ16世は、憲法に宣誓して立憲君主となって初めて復権できた
- ^ ジャコバン・クラブの方がやや穏健派が多く、この時期はまだジロンド派が同クラブでは力があったため、過激分子はコルドリエ・クラブに集まっていた。このクラブは所謂“マラーの党”が集うクラブであった
- ^ フランスの西インド諸島の植民地で反乱(ハイチ革命)が起きたために、出荷が止まって商品不足から短期間で価格が急騰し、それにつられて他の非植民地生産物の物価も上がり始めた。怒った民衆は、(民衆による)商品の価格設定を求めるようになり、最高価格令の要求はこの時期から興った。なおこの時点ではイギリスとは交戦状態にはなく、海上封鎖は行われていない
- ^ 市長ペティヨンは議会が戒厳令を布告するのを妨害した
- ^ これらのオーストリアとの共謀疑惑を「オーストリア委員会」とジャコバン派は呼んだ。この架空の「委員会」が織りなす陰謀にはマリー・アントワネットらも関与していることになっていたが、実際にはそれぞればらばらの活動をジャコバン派が結びついて考えていただけで、ラファイエットやフイヤン派の活動は、マリー・アントワネットやオーストリア当局の不信で拒絶され、お互いに足を引っ張っていた。しかしフイヤン派の処刑の多くはこれら共謀罪を理由としていた
- ^ 従来、国民衛兵隊に参加できたのは、銃や軍服などを自費で調達できる能動的市民に限られていた
- ^ この中に元立憲近衛士官ラ・ロシュジャクランとボーモン (Charles Marie de Beaumont d'Autichamp) 、同じく元立憲近衛兵ベシェールが含まれた。ベシェールは帝政期に元帥となる。ベシェールの友人のミュラも立憲近衛隊の一員だったが、彼は共和派であったので勧誘されなかった
- ^ 主に貴族子弟で、人づての勧誘によって集められた。ラ・ロシュジャクランの友人レスキュール、さらには海軍士官シャレットら、ヴァンデの反乱で後に指揮官となった仲間もいた
- ^ 富裕者の多く住む、王党派支持地区
- ^ 監察官(Procureur de la commune)は、国王の代理となる地方行政の長で、検察官も務める役職。ここでは現代の県知事に相当
- ^ ピエール=ルイ・レドレール (Pierre Louis Roederer) 、もともとは高等法院判事で立憲議員だった。この時は立憲君主派で、後にはテルミドール派となる政治家
出典
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, 上 p.293
- ^ マチエ, 市原 & ねづ 1989, 上 p.283
- ^ ミシュレ & 桑原武夫 1979, p.236
- ^ リューデ & 前川・野口・服部 1963, p.151
- 1 8月10日事件とは
- 2 8月10日事件の概要
- 3 結果
- 4 脚注
固有名詞の分類
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