信長家臣時代
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義昭と信長の対立が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。義昭が信長に逆心を抱く節があることを密かに藤孝から信長に伝えられていたことが信長の手紙からわかっている。義昭が追放された後の7月に桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、名字を改めて長岡 藤孝と名乗った。 8月には池田勝正、三淵藤英と共に岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼす功を挙げ、以後は信長の武将として畿内各地を転戦。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐のほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力としても活躍した(黒井城の戦い)。天正5年(1577年)、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和信貴山城を光秀と共に落とした(信貴山城の戦い)。 天正6年(1578年)、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘玉(ガラシャ)の婚儀がなる。光秀の与力として天正8年(1580年)には長岡家単独で丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され失敗。後に光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とした(北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である一色満信(義定)の領有が信長から認められた)。甲州征伐には一色満信と共に出陣。 余談となるが、同年正月12日付の信長から藤孝宛ての黒印状にて、尾張国知多半島で取れた鯨肉を信長が朝廷に献上したうえで、家臣である藤孝にも裾分けする旨を述べている。。
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信長家臣時代
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天正元年(1573年)8月、織田信長の朝倉氏討滅後、信長に降り信長書状によって本領を安堵されたのが直保の初出である。その後、越前国守護代となった桂田長俊(前波吉継)の下で信長に仕え、天正3年(1575年)11月には長俊の書出しに基づいて府中火内村56石の加増を受けた。この所領は翌年、府中三人衆から打ち渡しを受けている。このころ堀江・新開・千福・赤座・鞍谷・諏訪といった越前の諸士は柴田勝家や府中三人衆の与力とされており、前田氏とは関係があった。
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