信長政権のなかで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 05:41 UTC 版)
信長の勢力下では、元亀3年(1572年)に摂津で本願寺坊官の下間頼龍・下間頼純と交戦して敗北したり、翌元亀4年(1573年)2月17日に反信長派の三好義継・松永久秀らに居城の摂津中嶋城を落とされるなど武功には恵まれなかったが、足利将軍家に次ぐ武門の名門であったため、織田信長に利用されることとなる。 7月に義昭が追放された時、昭元は京都に留まり、義昭が去った後の槇島城(京都府宇治市)を任された。槇島城は山城の守護所だったので、信長は昭元を山城守護に任じることにより山城における将軍権力を否定したともいわれている。細川京兆家当主である昭元の存在は、義昭が去った後の織田政権にとり、重要な存在となった。同族の細川藤賢も近江国坂本城を任されている。 天正3年(1575年)、信長の推挙により、正式に右京大夫に任じられる。このことにより、朝廷からも京兆家当主として認められた。信長に服属後は「捨扶持」を与えられた存在にすぎないとされてきたが、これは明らかな誤りで、『信長公記』巻八の天正3年9月2日の項に、丹波国のうち桑田郡と船井郡の二郡を信長から与えられていることが分かる。 天正5年(1577年)、羽柴秀吉の尽力により(『翠竹院道三之手簡』)(『大雲山誌稿』)、信長の妹・お犬を娶り、信長からの偏諱を受けて信元(のぶもと)、さらに信良(のぶよし)と名を改めた。お犬の方にとっては2度目の結婚であり、信良よりも年長であった。以後、織田家の親族として織田政権内で厚遇されることとなるが、反対に信長は「京兆家当主の義兄」として立場を手に入れることとなる。信良はさらに丹波の田郡・船井郡の支配を許され、名目上丹波の旗頭の地位を委ねられた。しかし丹波支配の実権は、次第に信長の家臣明智光秀に移っていった。 天正9年(1581年)2月28日、正親町天皇の御前で信長が行った京都御馬揃えにおいて、公家衆の一人として参加している。
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