細川昭元とは? わかりやすく解説

細川昭元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 10:14 UTC 版)

細川 昭元(ほそかわ あきもと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名阿波国摂津国丹波国守護官位正五位上右京大夫細川京兆家19代当主。


注釈

  1. ^ 信良がまだ2歳だった天文18年(1549年)、父は京都を追われ、細川京兆家は事実上滅亡した。
  2. ^ この当時は(室町幕府は事実上滅亡しているものの)足利義昭が征夷大将軍に在職中であり、「関白秀吉・将軍義昭」という時代に相当する。このため、秀吉ではなく再び義昭から偏諱を受けることを秀吉から許されていたものと推測される。
  3. ^ 没年と月日については、「細川系図」「武徳編年集成」の天正20年(1592年)5月7日、「高野山過去帳」の天正20年(1592年)11月7日、「寛政重修諸家譜」の元和元年(1615年)11月7日など、複数の記録がある。

参照

  1. ^ a b 東京帝国大学 1944, pp. 178–179.
  2. ^ 森田, p. 124-128.
  3. ^ 谷口克広著、高木昭作監修『織田信長家臣人名事典』吉川弘文館、1995年。 
  4. ^ 宮本 2010, p. 117.
  5. ^ 宮本 1971.
  6. ^ 宮本 2010, p. 100-101,118-119.
  7. ^ 森田, p. 128-129.
  8. ^ 山下知之「天正後期の細川信良と長宗我部氏との関係 -細川信良書状の分析を通じて-」『戦国史研究』2016年、12-23頁。 
  9. ^ 森田, p. 129-130.


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細川昭元(ほそかわ あきもと)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)

センゴク」の記事における「細川昭元(ほそかわ あきもと)」の解説

通称六郎斎藤龍興立案した信長包囲陣に参画し、畿内民衆信長への檄文読み上げるなどの活動展開する。後に龍興とともに挙兵するが、援軍本願寺敗れたために降伏する

※この「細川昭元(ほそかわ あきもと)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
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