信濃電気の系列化
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1930年、長野電灯は電力需給や梓川電力の経営で関係の深い信濃電気を傘下に収めた。その契機は、信濃電気で長年社長を務めてきた越寿三郎が、本業である製糸業の不振と自身の高齢・病気を理由に、信濃電気およびその傘下にある信越窒素肥料から撤退する意を固めたことにある。越は最終的に長野電灯の小坂順造に対して両社の経営を引き受けるよう要請し、持株を手放した。信濃電気の大株主一覧によると、1930年9月末時点では筆頭株主が長野電灯(持株数6万4010株・持株比率19パーセント)になっている。 越から信濃電気・信越窒素肥料の経営を委ねられた小坂であるが、拓務政務次官在任中で社長に就任できないことから、代理での社長就任を親交のある長野県出身の実業家名取和作(富士電機社長)に頼んだ。その結果、信濃電気では1930年4月に越らに代わって名取と花岡俊夫・諏訪部庄左衛門ほか1名が取締役に就任し名取を社長・花岡を常務とする新経営陣が発足、追って信越窒素肥料でも名取が越に代わり社長に就いた。ただし名取の社長在任は短く、翌1931年(昭和6年)5月、前月に濱口内閣総辞職のため拓務政務次官の職を離れたため小坂自身が信濃電気・信越窒素肥料両社の社長に就任している。さらに小坂は同年7月17日、長野電灯でも社長に復帰した。社長復帰により小坂の代わりに社長を務めていた諏訪部庄左衛門は副社長に回り、以後1936年(昭和11年)7月まで在任している。 1930年初頭に発生した昭和恐慌は長野県下の主産業である製糸業に深刻な打撃を与えていた。県内の製糸業者に倒産・休廃業が相次いだ結果、養蚕農家にも影響が拡大、さらに長野市内の商店にも波及して商業の沈滞を引き起こした。長野電灯もまた恐慌による業績悪化を経験した。恐慌の影響は電灯数に現れており、一時は22万灯を超えていた電灯数が1930年下期に21万灯台に逆戻りしたのである。会社の配当率は1920年代より年率12パーセントを維持していたが1930年に入ると減配を重ねるようになり、1932年下期決算では電灯数の減少に卸売り電力料金の減収が加わって年率8パーセントへの減配を余儀なくされた。信濃電気も需要減退から経営が悪化しており、小坂が社長となった直後の1931年9月期決算で年率6パーセントへの減配に追い込まれている。 1933年(昭和8年)下期になると繭糸価格の高騰により地域経済が回復に転じ、それにあわせて長野電灯の成績も好転して電灯数が22万灯台を回復した。需要回復をうけて供給余力を充実すべく1935年(昭和10年)5月に出力3,280 kWの里島発電所を着工、翌1936年1月より運転開始した。里島発電所は茂菅発電所(1934年7月廃止)を再開発したもので、同発電所の約1キロメートル下流側にある。受電の増加もあり、1933年9月に新設の中外電力海ノ口発電所から2,550 kWの受電を開始し、1936年5月には千曲電気大岳川発電所から530 kWの受電も始めた。前者は南佐久郡南牧村海ノ口の千曲川に立地。後者は元は佐久水電という別会社が1926年2月に建設したもので、南佐久郡畑八村(現・佐久穂町)を流れる信濃川水系大岳川に位置する。 1936年12月末時点における長野電灯の供給成績は、電灯需要家7万557戸・取付灯数23万8239灯、小口電力供給1388台・4092馬力(約3,051 kW)、電熱その他供給833台・937 kW、大口・特約電力供給21,782 kWであった。これに対し供給力は自社発電所11か所・総出力24,840 kWと信濃電気その他からの受電7,961.2 kW(他に予備・融通電力の受電あり)からなる。
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