信濃電気の拡大
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長野電灯の開業以後、長野県下では1899年松本電灯、1900年飯田電灯(下伊那郡飯田町)・諏訪電気(諏訪郡上諏訪町)、1902年(明治35年)上田電灯(小県郡上田町)の順で新たに電気事業が開業していく。隣接する山梨県でもこの間の1900年に甲府電力が開業している。こうした流れの中の1903年(明治36年)12月、長野県内6番目の電気事業者として信濃電気株式会社が開業した。この信濃電気は、長野市の東方、信濃川(千曲川)東岸にあたる上高井郡須坂町(現・須坂市)に設立された電力会社である。創業者は同地で製糸業を営む越寿三郎。信濃川水系米子川に出力120 kWの米子発電所を設け、開業初期には須坂町やその北側の下高井郡中野町(現・中野市)に供給した。 信濃電気開業と同時期、長野電灯でも事業の拡張をなすべく新発電所の建設を決定した。新発電所は芋井発電所といい、既設茂菅発電所から見て裾花川の上流約2キロメートルの地点にあたる、上水内郡芋井村大字入山(現・長野市入山)に位置する。芋井発電所の使用認可は1905年(明治38年)4月29日付で、出力は当初250 kW、1907年(明治40年)12月以降は550 kWである。長野電灯では芋井発電所建設を機に1904年(明治37年)7月と翌年7月の2度にわたり電灯料金を引き下げ、需要開拓に努めた。市外への供給区域拡大も1904年4月より着手し、芋井村を皮切りに安茂里村、小田切村へと順次広げていった。長野電灯の電灯数は1907年に1万灯へ到達。また1906年(明治39年)より電灯供給に加えて動力用電力の供給も追加された。 一方の信濃電気では、1906年に、新潟県境となっている関川上流部に高沢発電所を新設した。発電所出力は600 kW(のち3,950 kW)と大型であり、長野市内の需要増加にあわせて発電所の新増設を重ねていくという長野電灯の堅実経営とは対照的な信濃電気の積極経営方針が現れている。両社間には供給区域の拡がりにも差があり、逓信省の資料によると1908年(明治41年)末時点における長野電灯の供給区域が長野市内のほかには芋井村・安茂里村(小田切村は未開業)と芹田村所在の長野駅構内に限られたのに対し、信濃電気の供給区域は須坂町・中野町のほか長野電灯区域の外縁部(上水内郡吉田村・三輪村・芹田村など)を含み、さらに千曲川上流側の埴科郡松代町・屋代町や更級郡稲荷山町にも及ぶ。加えて長野電灯区域と重複する形で長野市内一円に電力供給区域(電灯供給不可)も設定していた。信濃電気は長野市内進出強化の一環として1906年5月に市内の西後町に支店を開設している。 長野電灯では1900年代には2度の増資が行われており、まず1903年12月7万円の増資が、次いで1907年1月7万5000円の増資がそれぞれ決議され、資本金は8万円から22万5000円に拡大された。経営面ではこの間の1906年1月、小坂善之助が病気療養のため会長から退き、娘婿の花岡次郎がその後を任された。直後の役員録には、会長花岡次郎のほかには前島元助・羽田定八・水品平右衛門(長野のセメント・石炭商)・諏訪部庄左衛門(長野の肥料商)の4名が取締役を務めるとある。
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