会津四十万石改易事件
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天秀尼の千姫を通じた徳川幕府との結びつきの強さを物語る事件に会津騒動とも云われる加藤明成の改易事件がある。事件の記述は『大猷院殿御実紀』巻53、寛永20年(1643年)5月2日条にあるが、『大猷院殿御実紀』には改易の事実を記したあとで、「世に伝うる処は」と経緯を記している。従ってその経緯は幕府の記録(日記)に基づくものではない。また、その「世に伝うる処」の内容は作者不明の『古今武家盛衰記』の記述に酷似している。しかしながらその両方ともに東慶寺も天秀尼も出てこない。 天秀尼と事件の関係を記した史料は正徳6年(1716年)に刊行された『武将感状記』という逸話集と、文化5年(1808年)に水戸藩の史館で編纂された『松岡東慶寺考』である。『武将感状記』巻之十の「加藤左馬助深慮の事/付多賀主水が野心に依て明成の所領を召上げらるる事」にこうある。 その身は高野に入り、妻子は鎌倉の比丘尼所に遣わしぬ。・・・鎌倉に逃れたる主水が妻子を、明成人を遣わして之を縛りて引きよせんとす。比丘尼の住持大いに怒りて、頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと 、此の儀を天樹院殿に訴へて事の勢解くべからざるに至る。此に於て明成迫って領地会津四十余万石差上げ、衣食の料一万石を賜りて石見の山田に蟄居せらるる。 「天樹院殿」(千姫)が出てくるので「比丘尼所」(尼寺)とは東慶寺のこと。「比丘尼の住持」とは天秀尼のこと、「天寿院」ではないので千姫没後に書かれたものと判る。もうひとつの「松岡東慶寺考」には 住持大いに怒り古来よりこの寺に来る者いかなる罪人も出すことなし。しかるを理不尽の族無道至極せり。明成を滅却せしむるか、此の寺を退転せしむるか、二つに一つぞ とあり、「頼朝より以来」は「古来」に修正されているが、それ以外は上記『武将感状記』下線部分とまったく同じである。『武将感状記』は「成田治左衛門亡妻と契る事」などと『雨月物語』まがいの話まで載せている逸話集であり、そのまま事実とみなす訳にはいかないが、当時、将軍家所縁の鎌倉の尼寺が加藤明成の引き渡し要求に応じなかったことが広く知られていたということは解る。堀主水の妻は確かに東慶寺の天秀尼に命を助けられていたことが近年判明した。その妻の墓が会津にあり、かつその妻が事件後に身を寄せていた実家の古文書の跋文に経緯が書かれていた。 (天秀尼は堀主水妻を)忝くも戒弟子となされ、剰え宝光院観誉樹林尼と法名を給わり、命を与え給ふ事強く頻なり。されば明成殿も御威光置きかたく宥(ゆる)して、先祖黒川喜三郎貞得(主水妻の兄)に扶助すべしと給わりたるより… つまり明成が折れて、堀主水の妻は会津加藤家改易より前に会津の実家へ帰ったと。それも「明成殿」から「給わりたる」と。つまり堀主水妻の身柄は明成の元にあったということになる。これが事実とすれば『武将感状記』に記された結末は短絡しすぎで不正確であり、「事の勢解くべからざるに至る」ではなく「解けた」ことになる。両方をつなげて整合性を取るなら、会津藩の武士が東慶寺から堀主水の妻達を寺側の制止を振り切って強引に連れ去ったが、天秀尼の猛烈な抗議に折れて以下跋文の通りとなる。両方とも後世の文書であるので正確性には欠けるが、いずれにせよ堀主水の妻は東慶寺に駆け込んでおり、かつ天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴えて、その助命を実現したことだけは判る。
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