天秀尼とは? わかりやすく解説

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天秀尼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 05:23 UTC 版)

天秀尼(てんしゅうに、慶長14年(1609年) - 正保2年2月7日1645年3月4日))は、江戸時代前期の女性。臨済宗の尼僧。豊臣秀頼の娘で、千姫の養女。鎌倉尼五山第二位・東慶寺の20世住持。天秀は法号で、法諱は法泰(ほうたい)。院号は授かっていない。


注釈

  1. ^ a b 一部に「奈阿姫」とするものもあるが、その史料上の根拠は無い。三池純正は著書で仮の名を泰姫としているが、これは出家後の名「天秀法泰」の諱「法泰」から東慶寺を指す系字「法」を避け「泰」の字を採ったもので、仮の名であることを断っている[2]。また、川口素生も「出家前の名、俗名は不詳です」としている[3]
  2. ^ 慶長16年(1611年)8月1日から元和元年(1615年)12月29日までの約4年半に及ぶ徳川家康周辺の記録・日記。この間に大坂の陣があった。筆者は後藤光次林羅山ともいわれるが不詳。同時代で家康の周囲での記録であるため史料価値は高いとされる。
  3. ^ 台徳院殿とは二代将軍秀忠の戒名。
  4. ^ 「仏門にはいる、出家する」という意味。
  5. ^ 東慶寺十九世の瓊山法清。小弓公方・足利義明の孫で足利頼純の娘。
  6. ^ 天秀が号、法泰がであり、その諱の1字目の「法」は、東慶寺の系字(江戸時代には東慶寺の尼は全て諱の1字目は「法」)である。
  7. ^ 幻住派については『円覚寺史』 第六章第二節等に記されている。黄梅院は足利尊氏夢窓疎石の塔所として建立した塔頭で、室町幕府二代将軍・足利義詮の遺骨が分骨されて以降、足利氏の菩提寺としての性格を帯びる。室町時代から江戸時代にかけての東慶寺住持は天秀尼以外はすべて関東公方家であり、当初天秀尼の師であった十九世瓊山尼も足利氏の出である。その関係で天秀尼も黄梅院の古帆周信に参禅したと思われる。天秀尼の後、二十一世住持となった永山尼も足利氏(喜連川)の出であり、「嗣法系図」には「幻住中峰禅師…、古帆周信、謹中是□、永山法栄」とある。円覚寺では元旦深夜に総門、山門、他の塔頭はみな三鱗(北条氏の紋)の提灯を門前に掲げているのに、黄梅院だけは足利氏の紋である。
  8. ^ 大猷院殿とは三代将軍・家光の戒名。
  9. ^ ただし、『古今武家盛衰記』 には「相州鎌倉へ赴く」「鎌倉を立ち退き、紀州高野山へ登り忍び居す」とはある。
  10. ^ 墓と戒名の格式から、後世の史料に天秀尼が7歳まで預けられていたとされる三宅善兵衛の妻では有りえない[26]。一方で一部の書籍にあるような甲斐姫説にも史料批判に耐えうる裏付けは無い。
  11. ^ 禅宗寺院で庫裏や斎堂などに掛け、食事・法要などの合図に打ち鳴らす雲形の板。鐘板しょうばん打板ちょうばん、更に火版、長板、斎板などの別称がある。青銅または鉄板製であるが、東慶寺のものは青銅である。日本には鎌倉時代に禅宗とともに伝えられた。なお、円覚寺の禅堂(修行道場)には同じ用途の、木の板を使った打板が今も使われている。ただしこれは雲形ではない。
  12. ^ 実物は2013年4月16日 - 7月7日の「東慶寺二十世 天秀尼展」で公開されており、また永井路子の『天秀尼』にその写真がある[27]
  13. ^ 例えば東村山の国宝建築物・正福寺地蔵堂では、復元解体工事の祭に発見された尾垂木尻持送りに墨書銘が発見され、応永14年(1407年)の建立と解った。そこから、同一様式である元太平寺の仏殿(現在円覚寺舎利殿)も1407年頃、あるいはそれより少し後と建築史界の評価が定まったりしている[28]
  14. ^ 中国南宋時代の禅宗大寺院では住持を頂点に100名を越える僧がおり、その寺院運営の為に役僧を東班(寺院の経営を担当)、西班(修行を担当)に分けた。蔵主(ぞうす)は西班の頭首(ちょうしゅ:管理職)のひとつで、経典を管理する僧職である。頭首には首座(しゅそ)、書記、蔵主、知客(ちか)、知浴(ちよく)、知殿(ちでん)がある。このうち首座、書記、蔵主は、住持の代わりに法堂の法座に登り払子(ほっす)をとって説法をすることもある重要な役職である[29]。ただし東慶寺は格は高くとも建長寺や円覚寺のような大寺院ではないので、この場合の「蔵主」とは実際の職務ではなく肩書、地位の呼称である。

出典

  1. ^ 三池 2013, pp. 45–46.
  2. ^ 三池 2013, p. 46.
  3. ^ 川口.
  4. ^ 史料雑纂2収録。元和元年5月12日条はp.303
  5. ^ 徳川実紀2 p.41
  6. ^ 史料雑纂2。「駿府記」元和元年5月21日条および23日条 p.303
  7. ^ 徳川実紀2収録。元和元年5月21日条はp.42、5月31日条はp.43
  8. ^ 鎌倉市史・寺社編 p.346
  9. ^ 續々群書類從 収録
  10. ^ 三池 2013, pp. 120–123.
  11. ^ 川口 2011, p. Q.62.
  12. ^ 井上 1995, p. 208.
  13. ^ 高木 1987, p. 126.
  14. ^ 井上 1955, p. 48.
  15. ^ 井上 1955, p. 51.
  16. ^ 原田弘道「中世における幻住派の形成とその意義」『駒澤大學佛教學部研究紀要』第53巻、1995年、 21-35頁、 ISSN 04523628NAID 110007014987
  17. ^ 井上 1955, pp. 55–57.
  18. ^ 井上 1976.
  19. ^ 井上 1955, pp. 48–51.
  20. ^ 徳川実紀3pp.312-313
  21. ^ 古今武家盛衰記 巻第十六 「四十万石 加藤式部少輔明成」 pp.311-318
  22. ^ 武将感状記 巻之十
  23. ^ 武将感状記 pp.511-252
  24. ^ 井上 1976, pp. 32–33.
  25. ^ 三池 2013, pp. 158–160.
  26. ^ 三池 2013, p. 165.
  27. ^ 永井 1977, p. 31.
  28. ^ 関口 1997, pp. 116–119.
  29. ^ 関口 1997, pp. 71–72.


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