人種差別、論争と和解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 02:07 UTC 版)
「ビル・ラッセル」の記事における「人種差別、論争と和解」の解説
ラッセルのキャリアは人種差別に対する困難な闘いの連続でもあった。幼い頃はしばしば両親への差別的な虐待を目撃した。ある時、ラッセルの父がガソリンを求めてスタンドに並んでいたところ、従業員は白人の客全員が給油し終わるまでラッセルの父を待たせようとしたため、彼は別のスタンドに行こうとしたが、その従業員は散弾銃を彼の頭に突きつけた。またある時はラッセルの母が仮装服を着て歩いていたところ、警官に呼び止められ、「それは白人女性が着る服だ」と家に帰って服を脱ぐよう命じた。カリフォルニア大学でカレッジバスケのスター選手となった時も、彼と彼のアフリカ系アメリカ人のチームメイトたちは、常に白人学生たちの嘲笑の的だった。そしてそれは、ラッセルがプロ選手として成功し、NBAで最も優秀な選手の一人となってからも変わらなかった。1958年のオフシーズン、ラッセルがチームメイトたちと国内旅行をし、ノースカロライナのあるホテルに泊まろうとした際、白人のホテル経営者から黒人であることを理由に宿泊を拒否された。1961-62シーズンにはケンタッキー州で彼と彼のチームメイトが、やはり黒人であることを理由に入店を拒否された際には、同州レキシントンでのエキシビションゲームへの参加を拒否した。 これらの経験が重なったため、ラッセルは人種差別に対して非常に敏感となり、たとえそれが侮辱する意味を含まなくても、彼はしばしば人々の行動を差別的と捉えた。ラッセルは次第にブラックパワー・サリュートへの傾倒を強めていき、1967年のモハメド・アリの徴兵拒否を支持、黒人奴隷により建国されたアフリカのリベリアに土地を購入するなどの運動を展開し、周囲からは"フェルトンX"と呼ばれるようになった。1963年のスポーツ・イラストレイテッド誌でのインタビューは、多くの誤解を生んだ。ラッセルはインタビューの中で「I dislike most white people because they are people... I like most blacks because I am black.(直訳すれば「私は彼らが大衆なので、たいていの白人を嫌う…。私は黒人なので、たいていの黒人が好きだ」)」と答えた。このことについて白人のチームメイト、フランク・ラムジーが、では自分は嫌いかどうかと尋ねてきたため、ラッセルはあれは誤って引用されたものだと答えたが、彼の釈明を信じる者は少なかった。 高校時代にラッセルに助言を与えたジョージ・パウルス、大学時代にラッセルを大きく成長させたフィル・ウールパート、NBAで初めて黒人選手を積極的に起用したレッド・アワーバック、ラッセルに高給を支払ったセルティックスのオーナー、ウォルター・ブラウンと、ラッセルの周囲には白人の反人種差別主義者も多かったが、繰り返される差別に彼の態度は懐疑的となり、周囲の好意的な反応にも偽善的と捉えるようになってしまい、ファンや隣人からの賞賛を友好的には受け取れなくなった。 ラッセルは世界は自分に何も与えてくれなかったので、自分も世界には何も与えないと決めた。 この態度はラッセルと、ファンや記者との間に決定的な亀裂を生じさせた。ラッセルは「ボストンに借りがあるというがそれは違う。私は子供たちに微笑むことも親切にすることも拒否する」と発言。怒ったボストンのファンや記者の大部分はラッセルを利己的で誇大妄想的で偽善的だと非難した。当時のFBIのラッセルのファイルにも「白人の子供のためにサインをしない、尊大な黒人」と書かれていた。ボストン市民との敵対関係は数人を凶行に走らせ、彼らはラッセルの家に侵入し、壁に差別的な落書きをし、数々のトロフィーを破壊し、ベッドの上に排泄して去っていった。それに対しラッセルはボストンを「人種差別のフリーマーケット」と呼び、対立をより一層深めた。ラッセルのボストンに対する攻撃は引退後も止まず、ボストンの記者たちを反黒人主義者、人種差別主義者と呼び、これに対しボストンのスポーツ記者、ラリー・クラフリンはラッセルこそが差別主義者だと反論した。 1972年にラッセルの背番号『6』が永久欠番となった時も、1975年に殿堂入りした時も、ラッセルはボストンで開かれた式典には出席しなかった。引退後の暫くは、ラッセルはボストンには近づこうともしなかった。 しかし時が経ち、セルティックスが13年の間に11度の優勝を果たしたことも伝説と化した1990年代に入り、両者は和解の方向へと向かい、ラッセルも何度かボストンに訪れるようになった。そして1999年にラッセルの時代から長年セルティックスのホームアリーナだったボストン・ガーデンが閉鎖され、本拠地をTDガーデンに移す際、ラッセルの背番号『6』を再び永久欠番にしようとする動きが起こった。ラッセルも長年ボストンを避けてきたことへの埋め合わせをしたいという気持ちもあり、これを受けることにした。 そして1999年5月6日、ラッセルは久しぶりに満員の観衆の前で、セルティックスのホームコートに立った。やはりセルティックスの伝説ラリー・バードや、NBAの偉人カリーム・アブドゥル=ジャバー、そして長年の確執から和解を果たした永遠のライバル、ウィルト・チェンバレンらが見守る中、自身の背番号『6』が綴られたバーナーを新アリーナの天井に掲げた。観衆からは長時間に渡ってスタンディングオベーションが送られ、ラッセルの目からも涙がこぼれた。 2008年12月2日にはボストン市から『We Are Boston Leadership Awards』が贈られた。長年隠遁生活を送っていたラッセルの生活は俄かに忙しくなり、娘と共に年中行事に度々顔を出すようになった。
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