事故への経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 05:18 UTC 版)
「エル・アル航空1862便墜落事故」の記事における「事故への経緯」の解説
座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度19分8秒 東経4度58分30秒 / 北緯52.31889度 東経4.97500度 / 52.31889; 4.97500 1992年10月4日、オランダ王国のアムステルダムのスキポール空港から、イスラエルのエル・アル航空のニューヨーク発アムステルダム経由テルアビブ行きのボーイング747型貨物機が離陸した。離陸から6分後に、右主翼と第3エンジンを繋ぎとめているピン(ヒューズピン)が金属疲労により破断し、第3エンジンが脱落した。これに巻き添えとなる形で隣の第4エンジンが前縁フラップ諸共脱落し、右両エンジンが失われた。さらに衝撃で右翼の前縁および右側の油圧系統が破壊された。1862便はスキポール空港に引き返そうとしたが、高度の問題から旋回降下中、壊れた翼の揚力不足が原因で滑走路にたどり着く前に操縦不能に陥り、異常発生から8分後にアムステルダム郊外のベイルメルメール地区の高層アパートに墜落した。乗員3人、乗客1人(イスラエルでエル・アルの社員と結婚するため便乗した)とアパートの住人39人の、総計43人の犠牲者を出した。当初、テロの可能性が指摘され、アパートの犠牲者は200人以上と見積もられたため騒然となったが、部屋を留守にしていたアパートの住民が多かったため、予想よりも犠牲者は少なかった。 エンジン脱落直後に右翼の前縁が破壊されたが、巡航速度であったため辛うじて揚力が確保されていた。しかし着陸態勢に入り速度を落とすと揚力が減少し、右翼のみが失速し、右旋回しながら墜落した。 機体は右に横倒しになった状態でマンションに激突し、木っ端微塵になった。アムステルダム市が周辺住民の感情に配慮して瓦礫などをゴミ捨て場に運んだため、事故調査ではマンションの瓦礫や配管などと機体の残骸とを選り分けるのが困難であった。幸いにしてフライトデータレコーダーは見つかったが、結局事故現場及び残骸からはコックピットボイスレコーダーは見つからなかった。そのため、パイロット達の状況は空港管制官との通信のみしか残っていないが、副操縦士が第3エンジンの火災、第3・4エンジンの停止とフラップの異常を報告してきたことなどから、パイロット達は最後まで右両エンジンと前縁フラップが脱落したことを知らないまま飛行を続けたと見られる。後にこの火災警報は、エンジンの脱落で主翼が傷付いたことによる火災警報装置の誤報だったと判明した。そして墜落直前、「フラップを上げろ、ギアを下ろせ」という機長の声と、「墜落する、(エル・アル航空)1862便、墜落する!」という副操縦士の声が管制塔に送信されていた。 事故原因は、休日に友人と釣りをしていた警察官の目撃証言によりフーイ湖(オランダ語版)周辺から脱落したエンジンと主翼の一部が発見され、さらに残骸からヒューズピンが発見されたことで確定した。
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