事件後の顛末
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1961年(昭和36年)2月3日、この事件に関して第38回国会参議院で西郷吉之助議員が緊急質問し、当局の警備の手落ちを指摘。国家公安委員会委員長の安井謙は、右翼団体の抗議が中央公論社の本社に集中していたためにそちらに警備の重点を置き、社長宅の警戒が十分ではなかったことを暗に認めた。前年12月に前国会で浅沼事件に対する「暴力排除に関する決議案」を可決させたばかりであったが、同様の事件の発生により、さらに6月に政治的暴力行為防止法案の成立を目指すことになるが、これは衆議院で通ったものの、参議院では野党との協議不調により閉会までに成立せず廃案となった。 2月4日、中央公論社は犠牲となった家政婦(息子が社員だった)の葬儀を社葬で行った。 2月5日、中央公論社は社告で「言論の自由」を呼びかける一方で、『風流夢譚』を掲載に不適当な作品であったと反省して皇室と一般読者にお詫びし、事件の端緒となったことを遺憾とする「ご挨拶」を、同社の名義で新聞に出すという混乱を見せた。言論の自由を守れというジャーナリズムの掛け声に賛同するように見せながら、実際的には皇室報道の自主規制に大きく舵を切っていた。 2月6日には、事件前に提出されていた辞表が受理され、竹森前編集長が退社した。一方で、会社には事件前よりもさらに右翼が押しかけるようになり、佐郷屋留雄が社内で椅子を振り回して暴れるなどした。 同日深夜には作者の深沢七郎が記者会見を開いて涙を流しながら謝罪した。深沢は「下品なコトバ」を小説に使い「悪かったと思います」と述べて、護衛の刑事と供に姿を消した。深沢は右翼の襲撃を避けるためにホテルに潜伏した後、北海道や広島県など各地を転々として、1965年(昭和40年)まで5年間、放浪生活を余儀なくされ、そのイメージからいつしか「放浪の作家」と呼ばれるようになった。大江健三郎にも同様にしばらくは警護がつけられるようになった。 2月7日、社告を否定し、嶋中社長名義で新聞に改めて「お詫び」だけを掲載した。中央公論3月号にも同様のものが掲載された。被害者であるはずの同社が謝り続けるという一連の姿勢に対して疑問の声も上がったが、『戦後の右翼勢力』を執筆した堀幸雄によれば、福田恆存(保守派論客)、田中清玄(フィクサー)、畑時夫(民論社)、進藤次郎(大阪朝日新聞編集局長)と、嶋中社長の話合いで、中央公論社は編集方針を「中正に戻す」条件を呑んだからだという。堀は「右翼の介入、右翼の調停によって『中央公論』の言論は抑圧され、それだけでなく「菊のタブー」が再現された」と批判している。これらの経緯が一因で、その後中央公論社で発生した労働争議は長期にわたって続くことになり、1999年(平成11年)の読売新聞社への身売りをもたらす同社の業績低下はここに始まったとされる。 他方で、事件により言論・表現の自由が暴力に脅かされたとして、抗議のビラを配布し、右翼の暴力を取り締まるよう国会へ要請していた日本出版労働組合協議会などのマスコミ系の労働組合が中心となって、2月8日に日比谷公会堂で「テロに抗議し、民主主義を守る会」が開催され、「言論・出版の自由を守る文化団体連絡会」が結成された。 ところで、右翼の中でも事件の評価については意見が分かれていた。浅沼事件とは違って少年が「一人一殺」に失敗したことと、無関係の女性を殺傷させたこと、そして何よりも、「おそるべき右翼の凶刃のもとで、けなげにも最後まで御主人をかばいながら、ついに母としての生涯を無惨に終わられた」といった、被害者の家政婦に対する国民の同情が集まったためである。全日本愛国者団体会議(全愛会議)は婦女子を死傷させたとして少年の行為を否定し、大日本愛国団体連合・時局対策協議会(時対協)は「行為は非とするも精神は是とする」との立場をとった。
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