中国における沈従文評価
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1930年代 〇劉西渭による批評「『辺城』与『八駿図』」(1935年) ・「彼には美の感覚があり、そこらに転がっている石の山から美を発見することができる。彼の小説には一種特殊な空気がそなわっていて、それは今日の中国の他の如何なる作家たちにも欠けている一種のびやかな呼吸なのだ。(省略)彼には美の感覚があり、そこらに転がっている石の山から美を発見することができる。彼の小説には一種特殊な空気がそなわっていて、それは今日の中国の他の如何なる作家たちにも欠けている一種のびやかな呼吸なのだと、"生命"に宿る"美"を表現し得た作家として評価し、『辺城』は、二老が翠翠にうたって聞かせた恋歌である」。 建国直前 〇郭沫若『斥反動文学』(1949年) ・『沈従文評価の変遷(その1)』より小島久代氏は「反動文芸の内容として、赤・黄・青・白・黒の5つに分類して、沈従文は赤は赤でも「桃紅色的紅」つまりピンク色だといい、(省略)さらに、抗戦初期には「抗戦とは無関係」論を唱え、抗戦後期には「作家が政治に参与することに反対」を叫び、いま「革命戦争によって反革命に反対する戦争」をしているときに「民族自殺の悲劇」だと称して、革命から「遊離」した第3方面において新たに所謂「第4の組織」をたくらんでいると攻撃している。」。 建国後 〇王瑶『中国新文学史稿』(1954年) ・「だれかが沈従文のことを「スタイリスト」と言ったのは彼が優美な文字だけで作品をこしらえあげているという意味である。むろん、沈従文にも表現しようとした思想が無いわけではなかった。すなわち、「都会人」への嘲笑と野蛮な原始の力への賛美であった。(省略)ひとつの要素から、50いくつかの連想をうんだ、と彼もいっているが、観察と体験もせずに、空想だけで作品をデッチ上げたので、数こそ多いが、内容にとぼしい。沈従文は、筋の組み立てには長じているが、成功作はない。」。 1979年 〇田仲済、孫昌煕主編『中国現代文学史』 ・「彼は淡々とした筆遣いで、小品散文の手法で、青年の苦悶、軍隊生活、農村における民族及び苗族の生活を描き、多様な題材と独特の芸術風格を作り上げた。・・当時の作家群の中で、農村から都会まで、接した面からいえば、たしかに沈従文ほど広範囲互るものはいない。彼は、接しただけでなくそれらをみな彼の創作の中に収めた。彼の作品は曾て多くの青年男女の心を感動させ、社会にも比較的大きな影響をあたえた。しかし、彼が接したり体験したさまざまな生活は、結局これらの生活の内部まで深く掘り下げられることがなかった。・・彼はこれらの生活の素材に、中外古典の中のさまざまな物語伝説に加え、さらに自分の想像によって、大量の著作をなした。その中の神秘的な美、抒情的色彩、さらにはスリリングで新奇な筋が読者に好まれた。だが、どのような感じを与えたかというと、いずれもぼんやりとした輪郭だけで、まるで霧の中の花、雲にかくれた月のようなものであった。沈従文の文章は、永遠に新鮮で活発であり、紋切り型になることはなかった。彼は、小品文の筆法で物語を書き、描写や構成においては苦心のあとが見られるが、いつも筆にまかせて書き、いささかも留意せず、書きたいことをどこまでも書いたので、浮ついて、空虚で、確実性がないという文章のスタイルを形成し、苦心の配慮の配慮もむだになり、随所に題材を見つけて書く、運用自在な技巧がかえって致命性な足かせになった。」
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