三好長慶との戦い
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ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好氏の当主・三好長慶が晴元を裏切って、細川氏綱の陣営に転属した。その理由は、晴元が同族の三好政長を重用し、長慶を討伐しようとしたため、主君によって「逆臣」とされてしまったことにあった。 天文18年(1549年)6月24日、長慶は摂津江口で政長を破り、討ち取った(江口の戦い)。これにより、政長を支援していた晴元は立場が悪くなり、同月28日に義藤と義晴は晴元に伴われ、近衛稙家や久我晴通などとともに、京都を脱出し、六角定頼を頼り、近江坂本へ退避した。 京都を離れる際、義藤は今出川御所の近傍にあった相国寺に御所の留守を命じ、相国寺は上意を受け、御所の留守番を昼夜果たした。この時期、義藤自らが御内書を発給し始めているが、まだ若年と言うこともあり大御所である義晴の存命中は義晴名義の、その没後は生母である慶寿院が御内書を発給している例がある。 7月19日、長慶が氏綱を奉じて、上洛を果たした。義藤方に打撃を与えるため、松永久秀の弟・松永長頼 (内藤宗勝)は氏綱に与えられたと称して、山科七郷を横領した。また、長頼は今村慶満とともに、配下の進士氏の所領である石田・小栗栖も押さえた。長慶の弟・十河一存もまた、伏見宮家領の上三栖庄を押さえるなど、三好方は京都の荘園を次々に押さえた。 義藤としてはすぐに帰京できるという考えを持っていたが、晴元と長慶の戦いは決着がつきそうになかった。そのうえ、同年暮れから義晴が「水腫張満」という全身がむくんだ状態の病に臥し、翌年の天文19年(1550年)正月になっても改善しなかった。義藤は父のためにすぐにでも京に戻ろうと考え、晴元とともに三好方への反撃の準備を開始した。 2月、義藤は義晴とともに、東山の慈照寺の近くに中尾城を築いた。また、3月7日には坂本を出て、穴太に進んだ。次いで、4月には京と近江を結ぶ北白川にも城塞を築いた。 5月4日、義晴が穴太にて死去した(『万松院殿穴太記』)。 この時、義藤は穴太から比叡辻の宝泉寺に後退していたため、その葬儀に立ち会うことはなかった。義藤は宝泉寺を御座所とし、細川晴元や六角定頼と連携しつつ、反撃の機会を待った。 7月14日、三好勢が義藤の拠点である京の東郊外に侵攻した。細川勢らは戦意に乏しく、京の東郊外から出撃せず、晴元も戦わずに戦線を離脱し、越前へと向かった。三好勢は細川・六角勢が出撃してこなかったため、山崎へと撤退した。 11月19日、準備を整えた三好勢4万が京へとなだれ込み、細川・六角勢は応戦したものの、三好勢に敗退した。義藤も中尾城で指揮を取っていたが、同月21日に三好勢が押し寄せてきたため、中尾城を自焼して、近江堅田へと逃れた(中尾城の戦い)。 天文20年(1551年)1月末、政所頭人である伊勢貞孝が義藤を強引に京に連れ戻して、三好方との和睦を図ろうとするが失敗した。だが、貞孝は奉公衆の進士賢光らを連れて、30日に京に戻り、三好方に離反した。これを知った六角定頼の勧めにより、2月10日に義藤は朽木へ移った。 3月14日、京都の貞孝の屋敷において開かれた宴会において、進士賢光が長慶を3度にわたって刀で切りつけた。だが、賢光による暗殺劇は長慶に軽い傷を負わす程度に終わってしまい、賢光はその場で自害した。これは義藤が貞孝の屋敷に長慶が呼ばれるとの情報を得て、進士賢光を伊勢邸で行われた宴席に潜入させ、長慶を暗殺しようと目論んだものであった。 翌15日、三好政生や香西元成ら幕府軍が丹波の宇津から出撃し、東山一帯を焼き払ったが、16日には三好長虎ら率いる三好軍2万がこれを撃退した。長慶暗殺未遂事件とこの幕府軍の京都攻めは明らかに連動したものであり、義藤の策動であったと考えられる。 5月5日、親長慶派の河内守護代・遊佐長教が時宗の僧侶・珠阿弥に暗殺された。だが、珠阿弥は「敵人」に買収されていたといわれ、この事件も義藤の仕業とされるなど、畿内に不穏な空気が漂った。 7月、三好政生や香西元成を主力とした幕府軍が再び、京の奪回を図って侵入した。だが、松永久秀とその弟の松永長頼によって破られた(相国寺の戦い)。
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