七宝制作開始と2度の挫折
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「並河靖之」の記事における「七宝制作開始と2度の挫折」の解説
靖之の七宝制作の契機には諸説あり、オリバー・インピーは著書で「並河は明治元年(1868年)、尾崎九兵衛(明治4年に京都七宝会社を創立)の錦雲軒派と共に七宝製作を始めたと伝えられる」と記している。あるいは、明治5年(1872年)京都三条の加賀屋敷で尾張出身の桃井義三郎が七宝制作を開始しており、靖之の七宝制作もこれが契機となったという説もある。他にも、加賀屋敷で七宝会社を設立したのは明治4年(1871年)で、並河靖之、大井善臓、水谷龍造らが関わったという説もある。この説では、桃井義三郎や後藤文造の名前は記載されていない。また、靖之の右腕を務めた中原哲泉による伝承では賀陽宮のお付きとなった桐村茂三郎が靖之に名古屋で盛んだった七宝製造を勧めたといわれている。 靖之は明治6年(1873年)秋ごろから桐村茂三郎と10円ずつ出しあって資本金とし、自分たちの七宝制作所を起こす。この10円は前年に結婚した妻の持参金で、なけなしの金だったという。苦心の末同年12月に処女作「鳳凰文食籠」を完成させる。この作品は当初朝彦親王に献上されたが、第一号の記念品だったため、後に他の作品と交換してもらい、現在も並河靖之七宝記念館に伝わっている。翌年春過ぎには製造のめどが立ち、同業者の錦雲軒の世話で販路も開拓し、本格的に創業を開始する。ところが、桐村は七宝業に見込があると見るや、靖之が少し病で寝込んだ隙に職工を連れて出て行ってしまう。困惑した靖之は錦雲軒に相談すると、辞めずに続けるよう励まされ、残った職工2人と細々と再開する。 当時の日本は工業が未熟であったので、明治政府は貴重な外貨獲得手段(殖産興業)の一環として日本の伝統工芸品の欧米への輸出を奨励していた。靖之もこの流れに乗り、明治8年(1875年)の京都博覧会に作品を出品して銅賞を受賞する。自信をつけた靖之は、西洋の博覧会に積極的に出品するようになり、明治9年(1876年)の1876年のフィラデルフィア万博で銅賞牌、翌年の第1回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌、翌々年の1878年のパリ万博で銀賞を受賞する。 明治10年から朝彦親王の第4王子多田宮(のちの梨本宮守正王)と、第5王女絢姫(のちの竹内絢子)を相次いで自宅に預かり2年間教育係を務めたものの、横浜の外国商館ストロン商会から商談が舞い込むと七宝専業を決意し、明治11年末に宮家を辞す。しかしその後も宮家との関係は続き、朝彦親王が薨去した後も月に10回近く御殿に参内の上対面し、久邇宮が東京と京都を行き来する際はそのお供をしている。明治12年(1879年)京都府の博覧会品評人、明治14年(1881年)画学校御用掛を務めるなどキャリアを重ねるが、同じ14年頃、ストロン商会から品質が悪く買い手がつかないとの理由で契約を破棄される。京都の七宝に大きな影響を与えたワグネルは、既に靖之の内国勧業博覧会出品作について、器の質が悪く雑で、色彩も鈍く、図柄も七宝に適しておらず、京都の刺繍裁縫などを模範に勉強すべきだと警告していたが、これが現実のものとなった。靖之の面目は丸潰れとなったが、一方で気の毒に思ったストロン商会は靖之に勉強させるため、同年東京で開かれた第2回内国勧業博覧会に連れ出した。靖之はここで尾張七宝の質の高さを目のあたりにし自分が井の中の蛙だったことを痛感、京都に戻ると直ちに職人を約半分に減らして事業を縮小する。靖之は自費で再び上京し、毎日博覧会に通い詰め、七宝を訪ねて日光など各地を巡り見聞を広めて帰京すると、今度は全ての職工を暇を出し、自分と新たに雇った5人の少年だけで再出発する。
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