七宝
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七宝(しっぽう)とは、主に金属の素地にガラス質の釉を焼きつけて装飾する技法、および、その製品。古今東西世界各地で類例が見られる。日本における名称の由来は、仏教用語の「七宝(しちほう)」あるいは「七宝瑠璃」まで遡り、時代や地域によって「七宝流し」、「びいどろざ」、「七宝象嵌」など変遷してきた。
注釈
- ^ 2006年6月と2007年2月に行われた早稲田大学理工学術院の宇田応之名誉教授らによるツタンカーメンの黄金のマスク (cf. ) の科学調査(複合X線分析装置による調査)によれば、髭の部分の灰緑色の物質は長石や珪酸ナトリウムを主成分とする人工ガラスであり、七宝の釉薬に似た材料が用いられていたことが証明されている。──雑誌『金属』Vol.77 No.9〜12、アグネ技術センター。
- ^ 鳳凰堂の扉止め金具は、鳳凰堂の扉のある左右側面一間、正面三間の下框に各2個ずつ、計10個が現存しており、その青緑色の物質がガラス質(七宝釉)であるかは、科学的な分析が必要である
- ^ 近世七宝で製作年を確認できている作例は、二条城二の丸御殿黒書院帳台構(ちょうだいがまえ)(寛永3年〈1626年〉)など、江戸時代初期までしか遡れていない。──麓和善『錺 − 建築装飾にみる金工技法4 金工芸術の精華』
- ^ 嘉長が引手を製作したと伝えられる松琴亭は1620年(元和6年)に造営着手したと考えられているが、これを含む茶屋・書院・庭園などの造営は、八条宮家初代当主・智仁親王(1579-1629年)によって基礎が築かれ、第2代・智忠親王(1619-1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。
- ^ 横井時冬「工芸鏡」, 鈴木規夫「日本の美術3 七宝」凸版印刷株式会社, 鈴木規夫 榊原悟「日本の七宝」
- ^ 平田道仁が朝鮮人から中国式七宝技術を学んだとするのが通説であるが、それ以前にも、豊臣秀吉が天正15年(1587年)に築造した聚楽第に使用された釘隠と伝えられる違例(夕顔文釘隠など)や、南蛮貿易で成功した菜屋助左衛門(別称ルソン助左衛門)の堺の豪邸を日本の金工師が七宝で飾る技量を持っていた記録が残っているなど、日本で最初に七宝が作られた時期については定かでない(栗原信充『金工概略』、森秀人『七宝文化史』近藤出版社)
- ^ 御職人(おしょくにん。藩御抱の職人)とは異なる。明治時代以降の御用達職人とも異なる。
- ^ 平田七宝はここで断絶したが、平田家はそれ以降も続いている。「平田家が終わった」「平田の家系は11代続いた」などとする資料もあるが、これらは言葉足らずで、言わんとしているところは「“七宝の平田家”は(桃山時代から大正時代まで)11代続いて終わった」ということである。
- ^ 京都では、鋳造器に七宝を入れたものも泥七宝と呼んだ。
- ^ 明治時代には、京都の三条大橋から三条白川橋一帯には20軒を超える七宝焼業者が軒を連ねていた。(京七宝 並河靖之作品集 淡交社)
出典
- ^ 山下 大輔, 石崎 温史, 宇田 応之、「ポータブルX線回折・蛍光X線分析装置の開発と考古学への応用」 『分析化学』 2009年 58巻 5号 p.347-355,doi:10.2116/bunsekikagaku.58.347、日本分析化学会
- ^ “ツタンカーメン王の黄金のマスクの測定”. 公式ウェブサイト. 理研計器株式会社. 2019年4月8日閲覧。
- ^ a b "光彩の巧み-瑠璃・玻璃・七宝-", 五島美術館, p.7
- ^ 大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 植田兼司, 福庭万里子「[資料紹介 牽牛子塚古墳の夾紵棺片 : 植田兼司氏採集遺物]」『関西大学博物館紀要』第15巻、関西大学博物館、2009年3月31日、1-55頁、2019年4月8日閲覧。
- ^ 藤ノ木古墳 金銅製鞍金具(前輪) - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ a b 至文堂『日本の美術3 No.322 七宝』1993年。
- ^ “口絵1 黄金瑠璃鈿背十二稜鏡” (PDF). 正倉院(公式ウェブサイト). 宮内庁. 2019年4月8日閲覧。※画像あり。
- ^ 麓 和善 (2009年9月24日). “4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照 - 『錺 -建築装飾にみる金工技法』” (PDF). Index of /02/kazari. 麓和善. 2019年4月8日閲覧。※画像あり。
- ^ a b c d e f マリア書房『日本の七宝』1979年。
- ^ 雑誌『なごみ』1998年6月。
- ^ 『Arts of East and West from World Expositions, 1855-1900:Paris, Vienna and Chicago, 世紀の祭典 万国博覧会の美術』
- ^ 平塚茂兵衛 鳳凰文七宝香炉 (文化遺産オンライン)
七宝焼き
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七宝焼きとは、工芸技法の名称で、七宝町を発祥由来とする七宝町の焼き物という意味ではなく七宝焼き造りが盛んだったことから七宝町と名づけられた。同じ愛知県内の常滑・瀬戸の焼は、地域呼称由来である。 第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部中央購買本部が六寸花瓶などの大量買い付けを行い好況をもたらしたが、朝鮮戦争が勃発すると注文は激減、原材料も高騰したため業者の転廃業が相次いだ。業者数は、1950年12月時点で12業者、2019年時点で七宝焼生産者協同組合に加入している業者、個人は10となっている。
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