ロンドン移住と社会主義への傾倒
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「ラムゼイ・マクドナルド」の記事における「ロンドン移住と社会主義への傾倒」の解説
1886年、ロンドンに移住。フリート街で封筒の宛名書きの仕事を短期間したが、失業し、貯金を切り崩して生活した。最終的に倉庫で請求書係として働くことになった。この間、社会主義に関する見識を深め、社会民主連盟とは異なり議会制度を通じて社会主義の理想を進展させることを目的としたC・L・フィッツジェラルド(C. L. Fitzgerald)の社会主義連合に精力的に参加していた。1887年11月13日にトラファルガー広場で起きた血の日曜日事件を目撃し、『Remember Trafalgar Square: Tory Terrorism in 1887』と題された冊子を出版した。 故郷のスコットランドの政治にも関心を持ち続けていた。グラッドストンが提出したアイルランド自治法案をきっかけとしてエディンバラにスコットランド自治協会(Scottish Home Rule Association)が設立されたのち、1888年3月6日、マクドナルドはロンドン在住のスコットランド人の会合に参加し、マクドナルドの提案によりスコットランド自治協会ロンドン委員会が設立された。ロンドン委員会は暫くの間スコットランドの自治を主張していたが、ロンドン在住のスコットランド人にはほとんど支持されなかった。しかし、マクドナルドはスコットランドの政治や自治への関心を失わず、1921年に出版された自著『Socialism: critical and constructive』の中で、「スコットランドの英国化(anglification)が急速に進み、スコットランドの教育、音楽、文学、才能が損なわれ、英国化の影響下で育った世代は、過去から引き離されている」と述べている。 ただし、1880年代のマクドナルドは、政治より学業を重視していた。1886年から翌年にかけて、Birkbeck Literary and Scientific Institution(現・ロンドン大学バークベック校)で植物学、農学、数学、物理学などを学んだが、試験の1週間前に過労で突然体調を崩し、学者への道は絶たれた。 しかし、その後、1895年に同研究所のガバナーに任命されるなど、バークベックとの後年まで関わりは続いた。 1888年、トーマス・ラフ(Thomas Lough、紅茶商、急進派の政治家)の私設秘書になる。 ラフは1892年にウェスト・イズリントン選挙区より自由党国会議員に選出された。マクドナルドは、ナショナル・リベラル・クラブ(National Liberal Club)や自由主義・急進主義の新聞社の編集部に出入りできるようになり、急進主義や労働者の政治家が集まるロンドンの様々な急進主義クラブにも顔を出すようなり、選挙活動について経験を積んだ。間もなくラフの秘書を辞し、フリーランスのジャーナリストとして活動し始めた。また、暫くの間フェビアン協会の会員として、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで講演を行った。
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