ルー・ザロメとの交友とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ルー・ザロメとの交友の意味・解説 

ルー・ザロメとの交友

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:10 UTC 版)

フリードリヒ・ニーチェ」の記事における「ルー・ザロメとの交友」の解説

ニーチェ1881年に『曙光道徳的先入観についての感想』を、翌1882年には『悦ばしき知識』第1部発表した。『力への意志』として知られる著作構想芽生えたのもこの時期と言われる(草稿類の残っているのは84年頃から)。またこの年の春、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークパウル・レー通じてルー・ザロメ知り合ったニーチェは(しばしば付き添いとしてエリーザベト伴いながら)5月にはスイスルツェルンで、夏にはテューリンゲン州のタウテンブルクでザロメやレーとともに夏を過ごしたルツェルンではレーニーチェ馬車を牽き、ザロメが鞭を振り回すという悪趣味な写真ニーチェ発案撮影している。ニーチェにとってザロメは対等なパートナーというよりは、自分思想語り聞かせ理解しあえるかもしれない聡明な生徒であった。彼はザロメと恋に落ち、共通の友人であるレーさしおいてザロメの後を追い回した。そしてついにはザロメに求婚するが、返ってきた返事つれないのだったレーも同じころザロメに結婚申し入れて同様に振られている。その後続いたニーチェレーとザロメの三角関係1882年から翌年にかけての冬をもって破綻するが、これにはザロメに嫉妬してニーチェ・レー・ザロメの三角関係不道徳なものとみなしたエリーザベトが、ニーチェとザロメの仲を引き裂くために密かに企てた策略一役買っている。後年自分都合のよい虚偽満ちたニーチェ伝記執筆するエリーザベトは、この件に関しても兄の書簡破棄あるいは偽造したりザロメのことを中傷したりなどして、均衡していた三角関係をかき乱したのである結果として、ザロメとレー二人ニーチェ置いてベルリンへ去り同棲生活を始めることとなった失恋による傷心病気による発作再発、ザロメをめぐって母や妹と不和になったための孤独自殺願望とりつかれた苦悩などの一切から解放されるため、ニーチェイタリアラパッロ逃れ、そこでわずか10日間のうちに『ツァラトゥストラはかく語りき』第1部書き上げるショーペンハウアーとの哲学的つながりヴァーグナーとの社会的つながり断ち切ったあとでは、ニーチェにはごくわずか友人しか残っていなかった。ニーチェはこの事態甘受し、みずからの孤高立場堅持した。一時詩人になろうかとも考えたがすぐにあきらめ自分著作がまったくといってよいほど売れないという悩み煩わされることとなった1885年には『ツァラトゥストラ』の第4部上梓するが、これはわずか40部を印刷してその内7冊を親し友人献本する だけにとどめた1886年ニーチェは『善悪の彼岸』を自費出版した。この本と、1886年から1887年にかけて再刊したそれまで著作『悲劇の誕生』人間的なあまりに人間的な『曙光』『悦ばしき知識』)の第2版出揃ったのを見てニーチェはまもなく読者層伸びてくるだろうと期待した事実ニーチェ思想対す関心このころから(本人には気づかれないほど遅々としたものではあったが)高まりはじめていた。 メータ・フォン・ザーリス(ドイツ語版)やカール・シュピッテラーゴットフリート・ケラー知り合ったのはこのころである。 1886年、妹のエリーザベト反ユダヤ主義者ベルンハルト・フェルスター結婚しパラグアイに「ドイツ的」コロニー設立するのだという(ニーチェにとっては噴飯物の)計画立てて旅立った書簡往来通じて兄妹の関係は対立和解のあいだを揺れ動いたが、ニーチェ精神崩壊するまで2人顔を合わせることはなかった。 病気発作激しさ頻度増したため、ニーチェ長い時間をかけて仕事をすることが不可能になったが、1887年には『道徳の系譜』を一息書き上げた。同じ年、ニーチェドストエフスキー著作(『悪霊』『死の家の記録』など)を読み、その思想共鳴している。 また、イポリット・テーヌゲーオア・ブランデスとも文通始めている。ブランデスニーチェキェルケゴールを最も早くから評価していた人物の一人であり、1870年代からコペンハーゲン大学キェルケゴール哲学講義していたが、1888年には同大学でニーチェに関するものとしては最も早い講義行いニーチェの名を世に知らしめるのに一役買った批評家である。 ブランデスニーチェキェルケゴール読んでみてはどうかとの手紙を書き送りニーチェ薦めにしたがってみようと返事をしている。 ニーチェ1888年に5冊の著作書き上げた著作一覧参照)。健康状態改善兆し見せ、夏は快適に過ごすことができた。この年の秋ごろから、彼は著作書簡においてみずからの地位と「運命」に重きを置くようになり、自分著書なかんずくヴァーグナー場合』)に対す世評について増加一途たどっていると過大評価するようにまでなった。 ニーチェは、44歳誕生日に、自伝『この人を見よ』執筆開始した。『偶像黄昏』と『アンチクリスト』を脱稿し間もないであった序文には「私の言葉聞きたまえ!私はここに書かれているがごとき人間なのだから。そして何より、私を他の誰か間違えてならない」と、各章題には「なぜ私はかくも素晴らしい本を書くのか」「なぜ私は一つ運命であるのか」とまで書き記す12月ニーチェストリンドベリとの文通始める。また、このころニーチェ国際的な評価求め過去著作版権出版社から買い戻して外国語訳させようとも考えた。さらに『ニーチェヴァーグナー』と『ディオニュソス賛歌』の合本出版しようとの計画立てた。また『力への意志』も精力的に加筆推敲重ねたが、結局これを完成させられないままニーチェ執筆歴突如として終わりを告げる

※この「ルー・ザロメとの交友」の解説は、「フリードリヒ・ニーチェ」の解説の一部です。
「ルー・ザロメとの交友」を含む「フリードリヒ・ニーチェ」の記事については、「フリードリヒ・ニーチェ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ルー・ザロメとの交友」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ルー・ザロメとの交友」の関連用語

ルー・ザロメとの交友のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ルー・ザロメとの交友のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのフリードリヒ・ニーチェ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS