ヨハネスブルクの首席司祭、およびレソト主教として:1975-1978
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「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「ヨハネスブルクの首席司祭、およびレソト主教として:1975-1978」の解説
1975年、ツツは新たなヨハネスブルク主教(英語版)にノミネートされたが、ティモシー・バヴィン(英語版)に敗れた。バヴィンはツツに自分が辞職した後のヨハネスブルクの聖メアリー大聖堂(St Mary's Cathedral)の首席司祭(英語版)になるよう促した。ツツは1975年3月、(南アフリカの聖公会で4番目に高い序列である)この地位に選出され、この地位に黒人として初めて就任することになった。これは南アフリカでトップニュースとなった。ツツは南アフリカに戻ることを決めたが、妻のノマリゾ・レアはこれに反対し、結果として夫婦の関係は悪化した。ツツは1975年8月の式典で正式に首席司祭となった。聖メアリー大聖堂はこのイベントのために大混雑となった。式典にはTEF理事長であるアルメニア正教会大主教のカレキン・サーキシアン(英語版)も出席した。ヨハネスブルクに移動した後、ツツは白人地区のホートン地区(英語版)郊外にある首席司祭の邸宅には住まず、大部分が貧しい黒人の地区であるソウェトのオルランド(英語版)タウンシップにある中産階級の通りに住んだ。この大聖堂の信徒たちは人種的に多様であったが、多数派は白人であった。この人種状況は、人種間平等と、隔離の存在しない南アフリカの将来の可能性を希求するツツに希望を与えた。彼は大聖堂の信徒が使用していた典礼の近代化を試みたが、大多数の人々がそれを求めていないことに気づいた。また、彼が女性に対する聖職授与を支持し、自身の説教と典礼で使用する男性代名詞を性的に中立(gender neutral)なものに置き換えたことで、信者の間で見解の分裂が起きた。 ツツは、自分の地位を使って社会的不公正と見做したことを公に批判した。彼はメンフェラ・ランフェレ(英語版)のような黒人意識運動の関係者や、ンタト・モトラナ(英語版)のようなソウェトのコミュニティのリーダーと会い、国際的に公認された、アパルトヘイト政策を巡る南アフリカに対する経済的ボイコット(英語版)を公然と支持した。 彼は政府の1967年のテロリズム法(英語版)に反対し、反アパルトヘイト運動家(campaigner)のウィニー・マンデラと立場を共有した 。彼は大聖堂で人種間の調和のために24時間の祈り(徹夜祭)を行った。この法律の下に拘留されている人々のための特別な祈りが、このツツの行動には含められていた。1976年5月、彼は首相バルタザール・フォルスターに、アパルトヘイトの解体を強く促し、政府がこの政策を継続した暁には、この国で人種間の暴力が噴出するであろうという警告の手紙を送った。6週間後、ソウェト蜂起が勃発した。これは教育言語としてアフリカーンス語を必須とすることに対する黒人の若者の抗議が、警察と衝突したものである。10か月で少なくとも660人が殺害され、その大多数は24歳以下であった。ツツは白人社会にこの件に関する怒りが欠如しているように見られることに憤り、日曜礼拝でこの問題を取り上げ、白人の沈黙を「死んだように静か(deafening)」であると述べて、もし警官と政府系の民兵組織に殺害された学童が白人であったら、彼らは今見せているのと同じ沈黙を示すだろうかと問うた。 ツツの首席司祭としての任期は7年間の予定であったが、彼は7か月でレソト主教(英語版)の選挙にノミネートされた。ツツはその地位を望んでいなかったが、それとは無関係に1976年3月にレソト主教に選出された。彼は不本意ながらこの人事を受諾した。この決定は彼の信奉者(congregation)たちを動揺させた。彼らは自分たちの教区をツツが個人的キャリアアップのための足掛かりとして利用したと感じていた。7月、ビル・ブルネット(英語版)は聖メアリー大聖堂においてツツを主教に任命した。8月、ツツはレソトの首都マセルの聖メアリー・聖ジェームズ大聖堂(英語版)の式典でレソト主教に就任した。この式典には国王モショエショエ2世および首相レアブア・ジョナサンを含む数千人が出席した。レソト主教としてツツは主教区を巡行し、しばしば山中にある教区も訪れていた。彼はソト語を学び、この国への愛着を深めた。彼はフィリップ・モククをこの主教区の初代首席司祭に任命し、バソト人聖職者への継続教育に最大の重点を置いた。彼は王家と親しく交際したが、ジョナサンの右翼政権は支持しておらず、そちらとの関係は緊張したものになった。1977年9月、彼は東ケープ州で行われた黒人意識運動の活動家スティーヴ・ビコの葬儀に招かれ、スピーチをするために南アフリカに戻った。ビコは拘留中に警察によって殺害されていた。葬儀の席でツツは、黒人意識は「神の御業です。神はスティーヴを通じて、黒人が彼自身の本質的価値(intrinsic value)と、神の子としての価値(worth as a child of God)に目覚めることを望んだのです。」と述べた。
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