ヨハネスブルクの首席司祭、およびレソト主教として:1975-1978とは? わかりやすく解説

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ヨハネスブルクの首席司祭、およびレソト主教として:1975-1978

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:32 UTC 版)

デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「ヨハネスブルクの首席司祭、およびレソト主教として:1975-1978」の解説

1975年ツツ新たなヨハネスブルク主教英語版)にノミネートされたが、ティモシー・バヴィン(英語版)に敗れた。バヴィンはツツ自分辞職した後のヨハネスブルク聖メアリー大聖堂St Mary's Cathedral)の首席司祭英語版)になるよう促したツツ1975年3月、(南アフリカ聖公会4番目に高い序列である)この地位選出され、この地位黒人として初め就任することになった。これは南アフリカトップニュースとなったツツ南アフリカに戻ることを決めたが、妻のノマリゾ・レアはこれに反対し、結果として夫婦の関係は悪化したツツ1975年8月式典正式に首席司祭となった聖メアリー大聖堂はこのイベントのために大混雑となった式典にはTEF理事長であるアルメニア正教会大主教のカレキン・サーキシアン(英語版)も出席したヨハネスブルク移動した後、ツツ白人地区ホートン地区英語版郊外にある首席司祭邸宅には住まず大部分貧し黒人地区であるソウェトオルランド英語版タウンシップにある中産階級通り住んだ。この大聖堂信徒たちは人種的に多様であったが、多数派白人であったこの人状況は、人種間平等と、隔離存在しない南アフリカ将来可能性希求するツツ希望与えた。彼は大聖堂信徒使用していた典礼近代化試みたが、大多数人々がそれを求めていないことに気づいた。また、彼が女性対す聖職授与支持し自身説教典礼使用する男性代名詞性的に中立gender neutral)なものに置き換えたことで、信者の間で見解分裂起きたツツは、自分地位使って社会的不公正見做したことを公に批判した。彼はメンフェラ・ランフェレ(英語版のような黒人意識運動の関係者や、ンタト・モトラナ(英語版のようなソウェトコミュニティリーダー会い国際的に公認された、アパルトヘイト政策を巡る南アフリカ対す経済的ボイコット英語版)を公然と支持した。 彼は政府1967年テロリズム法英語版)に反対し、反アパルトヘイト運動家(campaigner)のウィニー・マンデラ立場共有した 。彼は大聖堂人種間調和のために24時間祈り徹夜祭)を行った。この法律の下に拘留されている人々のための特別な祈りが、このツツ行動には含められていた。1976年5月、彼は首相バルタザール・フォルスターに、アパルトヘイトの解体強く促し政府がこの政策継続した暁には、この国で人種間暴力噴出するであろうという警告の手紙を送った。6週間後、ソウェト蜂起勃発した。これは教育言語としてアフリカーンス語必須とすることに対す黒人若者抗議が、警察衝突したのである10か月少なくとも660人が殺害され、その大多数24歳以下であったツツ白人社会にこの件に関する怒り欠如しているように見られることに憤り日曜礼拝でこの問題取り上げ白人沈黙を「死んだように静か(deafening)」であると述べて、もし警官政府系の民兵組織殺害され学童白人であったら、彼らは今見せているのと同じ沈黙を示すだろうかと問うた。 ツツ首席司祭として任期7年間の予定であったが、彼は7か月レソト主教英語版)の選挙ノミネートされた。ツツはその地位望んでいなかったが、それとは無関係に1976年3月レソト主教選出された。彼は不本意ながらこの人事を受諾した。この決定彼の信奉者congregation)たちを動揺させた。彼らは自分たちの教区ツツ個人的キャリアアップのための足掛かりとして利用した感じていた。7月、ビル・ブルネット(英語版)は聖メアリー大聖堂においてツツ主教任命した8月ツツレソト首都マセルの聖メアリー・聖ジェームズ大聖堂英語版)の式典レソト主教就任した。この式典には国王モショエショエ2世および首相レアブア・ジョナサンを含む数千人が出席したレソト主教としてツツ主教区巡行し、しばしば山中にある教区訪れていた。彼はソト語学び、この国への愛着深めた。彼はフィリップ・モククをこの主教区初代首席司祭任命し、バソト人聖職者への継続教育最大重点置いた。彼は王家親しく交際したが、ジョナサン右翼政権支持しておらず、そちらとの関係は緊張したものになった1977年9月、彼は東ケープ州行われた黒人意識運動の活動家スティーヴ・ビコ葬儀招かれスピーチをするために南アフリカ戻ったビコ拘留中に警察によって殺害されていた。葬儀の席でツツは、黒人意識は「神の御業です。神はスティーヴ通じて黒人が彼自身本質的価値intrinsic value)と、神の子としての価値worth as a child of God)に目覚めることを望んだのです。」と述べた

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