ユーラシア包囲網
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1895年6月20日、フランスは日本および清朝との間に協定を結んだ。ここで清朝に対して3点の要求を飲ませた。 雲南省の蒙自・蔓耗・思茅・河口、そして広西省の龍州を通商許可すること。 トンキンから中国内陸部への鉄道延長。 雲南省・広西省・広東省の鉱山開発における優先権。 フランスは華南で利権を伸長するため外交を重ね、1898年に雲南鉄道の敷設権を得た。 同時にパリバとソシエテ・ジェネラルが北から動いていた。京漢鉄道を敷設したのは中国鉄道研究社だが、パリバとベルギー総合会社が参加していた。東清鉄道は露清銀行が敷設したが、露清銀行にもパリバだけでなくCNEP、クレディ・リヨネ、オタンゲルが参加していた。なかでもパリバは政府の強力な支援を受けていた。 1890年代末からイギリスも動き出し、鉄道・鉱山利権の獲得に動いた。なかでもビルマと四川省を結ぶ滇緬線と、漢口-成都鉄道の敷設権獲得に向け熱心であった。しかし、フランスと衝突するつもりはなかったようである。 1898年7月、インドシナ銀行と露清銀行は、ロシア政府の了解のもとに、蔵相コシュリーの仲介で交渉を重ね、次の3点を骨子とする協定を結んだ。 露清銀行は、上海(翌年に出店)より南の地域には支店・出張所を出さない。 インドシナ銀行は上海(翌年に出店)より北に支店・出張所を開いてはならない。 両銀行は相互に援助しあい、大事業に対する参加機会を分けあい、また、将来出店する諸都市では互いにコルレス関係を結ばなくてはならない。 これら3項目は、ケーブル・アンド・ワイヤレスと大北電信会社の1870年に協定された住み分けを想起させる。ケーブルの方は利益折半とするのが香港から上海までなのであるが、そういう「糊しろ」を使ってコルレス網ができる。 1900年5月16日、大統領デクレがインドシナ銀行の特権を更新した。これによる定款の主要な改正点は6点である。 有効期限は1920年1月20日までとする。 「支店を有するフランス植民地および保護領における国庫金出納業務」を義務とする。 資本金を倍額の2,400万フランとする。 中国・シャムに限らず、現地の慣習により必要と認められる場合、借主の手元にある商品を担保に貸し付けたり、支払人単独の保証で船荷証券を荷為替手形の支払人に引き渡したりできる。 国債応募解禁。外国債に対する応募額は資本金の1/4を限度とする。店舗を有する諸国での事業参加は積立金の1/3を超えない範囲で許される。 株主総会は少なくとも5年以上フランスまたはその植民地に居住しなければ出席できない。 2の権益は待遇としてフランス銀行並みである。3に対して払込資本金は1/4の600万フランであった。1906年2月(3,600万フラン)と1910年2月(4,800万フラン)の増資でも払込資本金の割合は1/4にとどまった。3/4を払い込ませるよりも、増資によりプレミアムを得た方が積立金を稼げたのである。この戦略は5の制限から意味を奪った。クレディ・リヨネはいずれの増資にも参加しなかったので、役員会より上の経営委員会には代表を送れなかった。4は既得権だった。従来は定款で認められていなかったゆえに摘発されてきた。しかし競争力保持のため銀行側がそれをずっと黙殺してきた。6は蔵相の要請で盛り込まれたが、しかし閨閥やコルレス網を分断するわけではなかった。
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