マレー作戦とシンガポール華僑粛清事件
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「辻政信」の記事における「マレー作戦とシンガポール華僑粛清事件」の解説
太平洋戦争開戦後はマレー作戦で第5師団の先頭に立って直接作戦指導を行い、敵軍戦車を奪取して敵軍陣地突入を行った。作戦参謀としての任務を放棄し第一線で命令系統を無視して指揮をとることに対して、第25軍司令官・山下奉文中将はマレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と辻を厳しく批判している。また、市川支隊一千人をタイ国軍に変装させてクアラカンサルまで大突破を図るという作戦に関与したが、この作戦は失敗した。 本作戦において辻は、紀元節、天長節、陸軍記念日などの記念日に拠点を占領する日が来るような実情を無視した作戦計画を立て作戦部隊の混乱を招いている。 シンガポールの戦いで英軍を破りシンガポールを占領した日本軍は、市内の華僑20万人の一斉検問をおこない、この中から抗日分子であると判断した者を大量に処刑した(シンガポール華僑粛清事件)が、この敵性華僑剔出処断案は、作戦主任参謀の辻と朝枝繁春が起草し山下司令官が決裁したものだった。警備本部で嘱託として勤務した篠崎護や現地の陸軍将校も、辻が企画・指導したと証言している。「抗日分子」の選別は、事前に取り決めた名簿に照合する方法で厳密に行われていたわけではなく、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と指示を飛ばすなど、粛清する人数そのものが目的化されていたため、外見や人相からそれらしい人物を適当に選び出し、多数の無関係のシンガポール華僑が殺害された。辻の起案した命令に対して、河村参郎昭南警備隊司令官などの指揮官たちは、短期間に大量の市民から敵性華人を選り分けるのは不可能であると上層部に抗弁し、河村はその後も虐殺中止するように進言した。 戦後のイギリスによる戦犯裁判において、虐殺を命令した山下(フィリピンで勾留、1946年2月23日処刑)、辻(逃亡)、朝枝(シベリア抑留)は何れも裁判に姿を見せず、前述の様に虐殺に反対して中止を進言した河村参郎司令官と、やはり虐殺に反対した大石正幸隊長の2名が現場の指揮官としての虐殺の責任をとられて戦犯として処刑された。上層部の命令の記録は残されておらず、河村等は指揮官が虐殺反対の意思表示をしたことを証言したが、その主張は認められなかった。終戦時にバンコクにいた辻は逃亡し行方をくらませており、潜伏から再び姿を現わしたのは両名とも処刑された後だった。 マレー作戦終了後の1942年(昭和17年)3月に辻は参謀本部作戦課に呼び戻され作戦班長となった。
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