シンガポール華僑粛清事件とは? わかりやすく解説

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シンガポール華僑粛清事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 14:37 UTC 版)

シンガポール華僑粛清事件(シンガポールかきょうしゅくせいじけん)とは、1942年2月から3月にかけて、日本軍の占領統治下にあったシンガポールで、日本軍(第25軍)が、中国系住民多数を掃討作戦により殺害した事件。1947年に戦犯裁判(イギリス軍シンガポール裁判)で裁かれた[1]


注釈

  1. ^ 軍司令官・山下奉文中将
  2. ^ 司令官・河村参郎少将
  3. ^ 師団長・西村琢磨中将
  4. ^ 師団長・牟田口廉也中将
  5. ^ 師団長・松井太久郎中将
  6. ^ 隊長・大石正幸中佐
  7. ^ 市川正少佐
  8. ^ 宮本菊松少佐
  9. ^ 俘虜関係調査中央委員会における補助憲兵隊の将校の証言では、処刑には憲兵も立ち会っており、処刑方法も憲兵隊長が決定したとされる[23]
  10. ^ 戦後にシンガポールの首相となったリー・クアンユーは、回顧録の中で、自身も当時、命令に従って集合場所に集まったが、青年華僑の集団に加わるよう指示された際に身の危険を感じて「荷物を取りにいきたい」と申し出て禁区内にあった友人宅に戻り、1日半ほど潜伏していたところ、理由は分からないが審査済とされて帰宅を許可され、危うく難を逃れたと述べている[26]
  11. ^ 1945年10月にシンガポールからマニラに派遣された英軍ワイルド大佐が行った尋問に対し、山下はシンガポールの華僑粛清は憲兵隊に責任があると回答していた。しかし、山下は作戦当時の第25軍の最高責任者であり、起訴されれば主犯格として有罪になっていたものとみられている[45]
  12. ^ 後に辻は逃亡の体験記で国民の人気を得て世間に再登場し、国会議員にも当選した[48]

出典

  1. ^ この記事の主な出典は、東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 199-206頁、林(1998) 210-250頁、林(2005) 163頁、林(2007)および井上ほか(2010) 144-151,182-190頁。
  2. ^ 林(1998) 212頁
  3. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 201頁、林(1998) 212,228,250頁
  4. ^ a b シンガポール華人虐殺とは”. コトバンク. 2021年1月11日閲覧。
  5. ^ 林(2007), p. 34-36.
  6. ^ a b 林博史『裁かれた戦争犯罪』岩波書店、1998年3月23日、174-175頁。 
  7. ^ 板垣與一「マラヤ複合社会におけるナショナリズムの発展」『一橋大学研究年報. 経済学研究』第6巻、一橋大学、1962年3月、1-54頁、doi:10.15057/9386hdl:10086/9386ISSN 0453-4751NAID 110007623965 
  8. ^ 坪井祐司「英領マラヤにおけるマレー人像の相克 : スランゴル州における対マレー人土地政策の展開」(PDF)『マレーシア研究』第2号、日本マレーシア学会、2013年、72-87頁、NAID 40020446439 
  9. ^ 桐山昇、栗原浩英、根本敬『東南アジアの歴史』有斐閣、203-09-30、152-153頁。 
  10. ^ 林博史 著、田中利幸 編『戦争犯罪の構造』大月書店、2007年2月20日、194-197頁。 
  11. ^ 林(2007), p. 213-214.
  12. ^ a b c d e 林 博史『シンガポール華僑粛清』(株)高文研、2007年6月25日、26-30,33,149,165-166,165-166頁。 
  13. ^ 林(2007), p. 49、林(1998), p. 211-213
  14. ^ a b 林(2007), p. 53、林(1998), p. 211-213
  15. ^ 林(2007), p. 54-55、林(1998), p. 214-217、岩川(1995) 202-203頁
  16. ^ 林(2007), p. 55-57、林(1998), p. 214-217、岩川(1995) 202-203頁
  17. ^ 林(2007), p. 57、林(1998), p. 214-217、岩川(1995) 202-203頁
  18. ^ メンバーリストの性質については(林(1998), p. 219-220)を参照。
  19. ^ 林(2007), p. 57-58、林(1998), p. 217-218
  20. ^ 中島みち『日中戦争いまだ終わらず』(株)文芸春秋、1991年7月15日、46,54頁。 
  21. ^ 林(2007), p. 58、林(1998), p. 217-218
  22. ^ a b c 全国憲友会連合会編纂委員会 編『日本憲兵正史』全国憲友会連合会本部、1976年8月15日、976-977,975&979,978頁。 
  23. ^ 林(2007), p. 59-60.
  24. ^ 林(2007), p. 59-60、林(1998), p. 217-218
  25. ^ 岩川(1995) 199-200頁、林(1998), p. 213。
  26. ^ リー(2000) 38-39頁
  27. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 199-200頁、林(1998), p. 211-213,218-221。
  28. ^ シンガポール華僑殺害事件とは”. コトバンク. 2021年1月11日閲覧。
  29. ^ 林(1998), p. 218-219、井上ほか(2010) 144-146,148-149,182-186頁。
  30. ^ 篠崎(1976)[要ページ番号]、リー(2000) 39頁。
  31. ^ a b c d 許 雲樵、蔡 史君 編、田中 宏、福永 平和 訳『日本軍占領下のシンガポール』(株)青木書店、1986年8月15日、33-34,25,29,59-72頁。 
  32. ^ 林(2007), p. 80.
  33. ^ 篠崎(1976) 39頁。
  34. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 200-201頁、林(1998), p. 211-213。
  35. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁。
  36. ^ 岩川(1995) 202-203頁。
  37. ^ 林 博史『裁かれた戦争犯罪』㈱岩波書店、1998年3月23日、223頁。 
  38. ^ 岩川(1995) 203-204頁、林(1998), p. 223。
  39. ^ 岩川(1995) 204頁。
  40. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 204頁、林(1998), p. 212。
  41. ^ a b 岩川(1995) 204頁
  42. ^ a b c イアン・ウォード『将軍はなぜ殺されたか』㈱原書房、2005年3月25日、90頁。 
  43. ^ 林(1998), p. 223.
  44. ^ 林(1998), p. 212.
  45. ^ a b 林(1998), p. 225.
  46. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、林(1998), p. 225。
  47. ^ 林(1998), p. 225-226.
  48. ^ 杉森(1982) 133頁
  49. ^ 大西(1977) 70頁 73-4頁、河村(1952)166頁
  50. ^ 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、1977年、70頁。
  51. ^ 杉森久英『参謀・辻政信』河出書房、133頁。 
  52. ^ 井上ほか(2010) 150頁。
  53. ^ 林(1998), p. 211.
  54. ^ 林(1998), p. 211,223-224.
  55. ^ 中田 整一『最後の戦犯死刑囚 西村琢磨中将とある教誨師の記録』平凡社、2011年5月16日、150頁。 
  56. ^ 林(2007), p. 192.
  57. ^ 林(2007), p. 193.
  58. ^ 林 博史『戦争犯罪の構造 日本軍はなぜ民間人を殺したのか』(株)大月書店、2007年2月20日、197頁。 
  59. ^ 林(2007), p. 197-198.
  60. ^ a b 林(1998), p. 222.
  61. ^ 林(1998), p. 220-221.
  62. ^ 林(1998), p. 221、井上ほか(2010) 146頁。
  63. ^ 東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、林(1998), p. 213、井上ほか(2010) 146-148頁。
  64. ^ 『星洲日報』、1962年5月1日。
  65. ^ 林(2007), p. 163.
  66. ^ 秦(2006), p. 286.
  67. ^ 林(1998), p. 210.
  68. ^ 林(1998), p. 224、林(2005) 163頁、林(2007), p. 214-215。
  69. ^ 岩川(1995) 200頁。
  70. ^ [出典] 日本外交主要文書・年表(2),727-728頁。
  71. ^ シンガポール日本人会 「南十字星」10周年記念復刻版—シンガポール日本人社会の歩み ”日本占領時期死難人民記念碑”(篠崎護)80-82頁 “現地の人々に喜ばれた”(同)82頁、南洋商報 (1976年2月16日) “日治蒙難人民紀念碑‐舉行九週年祭奠” 18頁
  72. ^ 林(2007), p. 15.
  73. ^ Straight Times 2.16
  74. ^ The Onlinecitizen, Singapore「Over 700 people commemorated 75th Anniversary of the Fall of Singapore during WWII at Kranji War Memorial Published on 2017-02-17 by Neyla Zannia」


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シンガポール華僑粛清事件

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シリル・ワイルド」の記事における「シンガポール華僑粛清事件」の解説

1946年8月下旬から9月上旬にかけて東京行った調査で、ワイルドは、それ以前米国調査見落とされていた26件の日本軍報告書見付けた。その中に俘虜関係調中央委員会4班がまとめた「シンガポールにおける華僑処罰に関する調書」と題した秘密扱い文書があった。その内容はシンガポール華僑粛清事件への軍の関与いかにして誤魔化すかを検討したのだった報告書をまとめたのは元第25軍参謀杉田一次中佐だった。ワイルド個人的に杉田中国住民殺害関与していたことを知っていたため(後述)、1945年8月最終週巣鴨プリズン行き華僑殺害への関与容疑杉田正式に逮捕し軍用機シンガポール送致した1946年9月10-11日、東京裁判ワイルドは、シンガポール陥落後の1942年2月22日にニュービギン准将通訳として日本側代表の杉田一次参謀交渉した際に、英軍側が100名以上の中国住民がチャンギーの収容所の外の海岸機銃掃射によって殺されたことと英軍捕虜死体埋葬作業命令されたことについて抗議し今後中国住民殺害部下死体埋葬への使役行わないことを申し入れた際に、杉田参謀が「是等華僑は悪い人間である、であるからして彼等射殺したのである」「我々は何時でも悪い奴見つかったならば、こちらの欲する時に射殺するのである」と答えた、と証言した。 しかし1946年9月ワイルド死去すると、華僑粛清事件の裁判が始まる前に杉田釈放され検察側の証人となった

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