ポーランド・リトアニア時代
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「ルーシ人」の記事における「ポーランド・リトアニア時代」の解説
14世紀の時点で北東地方の諸公が互いの関係において自分たちをルーシ人とみなす意識を持たなかったのに対し、ロマン公とダヌィーロ公の一族が支配したハールィチ・ヴォルィーニ地方では、自分たちこそが「ルーシの地」の盟主であるという強い自己意識を持ち、ルーシ人という同族意識に基づく伝統的なルーシの地の考え方を引き継いでいた。ハールィチ・ヴォルィーニ地方では、伝統的なルーシ意識が支配層によって保持されていた。 ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の崩壊後、その領土は主にリトアニア大公国とポーランド王国に領有された。14世紀までにリトアニア大公国は急速に発展し、ヴォルィーニ、からチェルニーヒウ、キエフ地方までウクライナの多くの地域をその版図に収めた。リトアニアは自分たちの文化の押し付けを行わずむしろ現地の文化・宗教(正教)に染まっていったため、リトアニア人は1-2世代のうちに見かけも言葉もルーシ人化した。ルーシ人の言葉であるルーシ語はリトアニア大公国の公用語となり、ルーシ系貴族は積極的に登用された。リトアニア大公国の領土は今日のベラルーシとウクライナに跨っていたため、いわゆる「リトアニア系ルーシ人」というのには今日のベラルーシ人とウクライナ人の祖先が含まれる。 これに対し、ポーランド王国は自国の文化・宗教を現地の住民に押し付けたため、次第に軋轢を生じるようになった。ポーランドとリトアニアの政治的結合が進み、リトアニアが衰えてやがてポーランド・リトアニア共和国が誕生すると、今日のウクライナに当たる地域のほとんどはポーランド領に編入された。現地のルーシ系住民の中では大貴族(マグナート)とそのほかの貴族(シュラフタ)、平民の階層分化が進み、とりわけ支配者階層は言語・宗教・文化的にポーランド宮廷化していった。権力基盤を強固にするためにポーランド化しつつもルーシ人としてルーシの文化と宗教を守護するマグナートもいたが、特に宗教ではポーランド政府の政策により正教会の重職へ俗人が多く投入されたために教義に適わない腐敗が横行した。そうした中で、ルーシの伝統文化と宗教の担い手としての庶民の役割が大きくなっていった。 16世紀の宗教改革以後、ヨーロッパの諸国で宗教対立が頻繁になり、リトアニアとポーランドに住む多くのルーシ人はコサック運動に加わり、しばしば反政府の反乱をおこした。17世紀半ばにポーランド・リトアニア共和国においてフメリニツキーの乱が勃発すると、ルーシ人はウクライナ中部・ベラルーシ南部を中心独自のコサック国家を作成した。この国家の中心地はウクライナにあったため、「ルーシ人」という民族名はウクライナに住む「ウクライナ人」と強く結びつくようになった。彼らは「コサック=ルーシの民」とも自称した。一方、ベラルーシのルーシ人は次第に「リトヴィン(ベラルーシ語版)」と呼ばれるようになった。
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ポーランド・リトアニア時代
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「ガリツィア」の記事における「ポーランド・リトアニア時代」の解説
ハールィチ・ヴォルィーニ公国は最盛期にはルテニア・ウクライナ随一の勢力を誇ったが、ヴラジーミル大公国やリトアニア大公国など他国との競合に敗れ滅亡した。1349年のハールィチ・ヴォルィーニ戦争では、カジミェシュ3世率いるポーランド王国にガリツィアとハールィチは共に編入され、リトアニアがヴォルィーニを獲得した。 その後、ポーランド・リトアニア共和国に領有されるようになった。これによりこの地域は政治情勢が安定、300年以上にわたる繁栄の時代を迎えた。 17世紀半ばに入ると、(主に気候変動による不作と推定される原因で)この地域の経済状態が悪化、農地の寡占化が進み、大地主と小地主の間に大規模な土地争いが始まる。1648年と1655年には、リヴィウがウクライナ・コサックのヘーチマン、ボフダン・フメリニツキーによって攻撃を受けた。その後、ポーランド・リトアニア連合の勢力は目に見えて衰え始めた。
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