フメリニツキーの乱とは? わかりやすく解説

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フメリニツキーの乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 09:11 UTC 版)

フメリニツキーの乱(フメリニツキーのらん、ウクライナ語: Хмельни́ччина、フメリヌィーッチナ)は、1648年から1657年までの間、ポーランド・リトアニア共和国の支配下にあったウクライナにおいて、ウクライナ・コサックヘーチマン(将軍)ボフダン・フメリニツキーが起こしたコサックの武装蜂起である。この蜂起はウクライナ対ポーランドの大規模の戦争に発展し、ポーランド・リトアニア共和国の衰退を引き起こす一方で、ウクライナ・コサックによるヘーチマン国家の創立と、戦争に介入した隣国ロシア・ツァーリ国の強化という結果をもたらした。フメリニツキーの乱は、東ヨーロッパの政治地図を大きく切り替え、17世紀半ば以降当地域に住む多数の民族の運命を決めたので、東ヨーロッパ史上の最大の軍事衝突の一つだったと考えられている。


  1. ^ ウクライナ語: Національно-визвольна війна українського народу『ウクライナ史事典』、1993年
  2. ^ ウクライナ語: Козацько-польска війнаコサック・ポーランド戦争(ウクライナ百科辞典)
  3. ^ ウクライナ語: Козацька РеволюціяN.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  4. ^ 知行地の位置は、キエフ県・チヒルィーン町・スボーチウ村であった。現在のウクライナ・チェルカースィ州・チヒルィーン地区・スボーチウ村に当たる。
  5. ^ フメリニツキーは、ウクライナ語とポーランド語のみならず、トルコ語オスマン語)、クリミア・タタール語フランス語を話せたといわれる。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  6. ^ a b “Глава III. "Ад кромешной злобы"”, [[#Yakovenko1894 |Яковенко, В. И. (1894)]].
  7. ^ 現在のウクライナ・ドニプロペトロウシク州ジョーウチ・ヴォーディ市に当たる。
  8. ^ 英語で: Zhovti Vodyと呼ぶ場合、川の名前ではなく地名の方を指すというように使い分けている。
  9. ^ 当時、ポーランド・リトアニア共和国の国権を握っていたのは宰相のイェジ・オッソリンスキであったが、彼はウクライナ系貴族のアダム・クィシーリというキエフ県知事にコサックとの交渉を任せた。コサックは政府に対してウクライナにおけるコサックの内政自治権、貴族と同様な軍人権・市民権、国軍でのコサックの人数の増加などを要求していた。
  10. ^ 現在のウクライナ・フメリニツキー州・プィリャーヴァ村に当たる。
  11. ^ 当時、官軍の司令官は、ヴワディスワフ・ドミニク・ザスワフスキ、ミコワイ・オストロルクとアレクサンデル・コニェツポルスキであった。何れも戦争の経験が浅かった。後に三人は「甘えん坊・学びん坊・幼ん坊」と呼ばれた。
  12. ^ プィリャーウツィの戦いは、ポーランド史上では最も大きな戦敗の一つとされる。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  13. ^ こうした要求は、16世紀前半に見られるコサック・貴族同権論を中心としたコサックの伝統的な思想に基づいていたもので、フメリニツキーの乱の初期段階は、民族紛争より社会問題を背景にした内乱であったことを示唆している。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  14. ^ a b c d e f g h i N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  15. ^ 当時のポーランド・リトアニア共和国のキエフ県、チェルニーヒウ県、ブラーツラウ県、ポジーリャ県、ルーシ県、ヴォルィーニ県である。現在の西・中央・北東ウクライナに当たる地域。なお、当時のウクライナ人はルーシ人と呼ばれていた。
  16. ^ その内、3万から4万人はプロのコサックで、その他は市民・農民から構成される志願兵であった。
  17. ^ 現在のウクライナ・テルノーピリ州・ズバーラジュ市にある城。
  18. ^ 現在のウクライナ・テルノーピリ州・ズボーリウ市に当たる。
  19. ^ ズボーリウ条約の原文(ウクライナ語)
  20. ^ ポトツキは、フメリニツキーの乱の以前にもコサックの廃止を主張していた人物であった。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  21. ^ タタールの撤退の理由は不明である。タタールがポーランドの発砲を恐れたとも、戦いが戦争を忌むべきイスラムの犠牲祭の時期に行われていたことに起因するとも、イスリャム3世ゲライとポーランド国王とのあいだに秘密条約があったともいわれる。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  22. ^ 現在のウクライナ・ヴィーンヌィツャ州ラディージン市に当たる。
  23. ^ 現在のウクライナ、フメリニツキー州、ジュヴァーネツィ村に当たる。
  24. ^ ジュヴァーネツィの戦い最中、フメリニツキーの本陣に、10月11日付けでロシア・ツァーリ国全国会議はウクライナ・コサックとその領土を保護することで合意したという知らせが届いた。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  25. ^ ウクライナ・コサックとクリミア・タタールの同盟は平等な立場で締結されたらしい。当時の外交史料ではフメリニツキーとクリミアのイスリャム3世はお互いを「友人」と呼んでいた。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  26. ^ 1650年、フメリニツキーはタタールの援軍を借りてモルドバのヤシを陥落させて、ヴァシーレ・ルプにウクライナとモルドバを結ぶ結婚を請求した。1652年、ティモフィーイ・フメリニツキーが率いる6千人のコサック軍はモルドバに出兵し、ヤシで結婚式をあげてウクライナに戻った。
  27. ^ メフメト4世の母は、クリミア・タタールよって捕らえられ、クリミアの奴隷市場で売られたウクライナ人(ルーシ人)の女性であった。トルコ風にすると名前はトゥルハン。フメリニツキーとの外交においてオスマン帝国の政府が親ポーランド派と親コサック派に分裂していたが、トゥルハンは後者を支持していたらしい。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  28. ^ 1653年の春にモルドバ公国ではクーデターが起こり、宰相のゲオルゲ・ステファンがヴァシーレ・ルプ君主の座を奪った。前者はオスマン帝国の他にワラキアのマテイ・バサラブとトランシルヴァニアのラーコーツィ・ジェルジ2世に支えられたが、後者はウクライナ・コサックに頼った。同年、ヴァシーレ・ルプの婿、ティモフィーイ・フメリニツキーは、モルドバの首都スチャヴァを占領して舅に政権を戻したが、父の命令とコサックの長官の諫言を無視してワラキアに攻め入り、大完敗を喫してスチャヴァまで撤退した。1653年9月15日、ゲオルゲ・ステファンがワラキアとトランシルヴァニアの援軍とともにスチャヴァを包囲している中に、ティモフィーイ・フメリニツキーは砲弾に斃れた。9月19日にコサックはゲオルゲ・ステファンと平和条約を結び、10月30日にティモフィーイ・フメリニツキーの遺体とともにウクライナに帰陣した。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  29. ^ このような請願は、オスマン帝国の保護に対する第二に取りうる道であった。オスマン帝国からの保護策がコサックの長官によって進められたのに対して、ロシア・ツァーリ国からの保護策は、ロシア・ツァーリ国もコサックのウクライナも正教会に属する地域であるという共通意識に基づいて正教会の聖職者によって推進された。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  30. ^ 宣告書には「ザポロージャのコサック軍と、その町々と領土と共に、ツァーリの御手下に受け入れることを承諾仕る…その軍と領土が、トルコのスルタン、あるいはクリミアのハーンの保護を受けないようにするためである。」と書いてある。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  31. ^ ロシア側は、ルーシの古代の都、ウクライナのキエフで盛大な会議とコサック国家の保護儀式を行いたかったが、フメリニツキーはそれを断って普通の地方都市ペレヤースラウでそれを実行した。フメリニツキーは、なぜキエフではなくペレヤースラウでロシア・ツァーリ国の保護を受けるようになったのか不明であるが、二つの都市の象徴的な意味を考えるとコサック側にとって今回の儀式は「永久の保護」よりは「一時的な同盟」であったと推測される。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  32. ^ ポーランド・リトアニア共和国などを含む当時のヨーロッパの風習では、主従関係は互いの誓約で成り立っていた。しかし、ロシア・ツァーリ国においては主従関係のありかたが異なっていたので、コサックの誓約に関する問題が生じた。
  33. ^ しかし、誓約は一方的であったため、コサックの目からは正当性を欠いていた。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  34. ^ その内には、6万4千人のコサックがいた。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  35. ^ 18世紀初頭よりコサック国家は次第にロシア帝国の社会秩序の影響を受け、コサック長官の貴族化と農民の再農奴化が始まり、コサック国家の身分制は硬直化していった。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  36. ^ なお、軍事的単位としての十人隊は20 - 50人、百人隊は200 - 300人、連隊は2千 - 4千人のコサックから編成されていた。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  37. ^ 1649年と1652年に、戦争で悪化したウクライナの経済を活発させるため、フメリニツキーは独自の貨幣を造幣しはじめた。現物は発見されていないが、当時のロシア・ツァーリ国のクナコフ大使の報告書と、ポーランド・リトアニア共和国側のポジーリャ県知事ポトツキの書状では、フメリニツキーの銀貨の表には刀、裏にはフメリニツキーの名が刻まれていたという。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  38. ^ その支配を承諾しなかった多くのウクライナ人は、北ウクライナあるいはモルドバへ逃亡したという。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
  39. ^ 現在のウクライナ・チェルカースィ州・オフマーチウ村に当たる。
  40. ^ 現在のウクライナ・リヴィウ州・ホロドク市に当たる。
  41. ^ ユダヤ人の研究史においてフメリニツキーの乱は、ユダヤ人迫害史の中で最悪の事件の一つであるとされる。ユダヤ人の死者数は2万人から10万人程度であったと推測されているが、当時の在ウクライナのユダヤ人の人口は5万1千であったため、死者数は推測過多になっている。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年Jerome A. Chanes著『Antisemitism』赤尾光春著「ウマン巡礼の歴史―ウクライナにおけるユダヤ人の聖地とその変遷―」『スラヴ研究』第50号
  42. ^ Яковенко Наталяウクライナ語版. Паралельний світ. Дослідження з історії уявлень та ідей в Україні XVI-XVII ст. — Київ: Критика, 2002. ISBN 966-7679-23-3
  43. ^ その時、ウクライナの難民の一部は、ロシア・ツァーリ国の南の国境に住み着き、スロボダのウクライナというコサックの組織を創立した。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年


「フメリニツキーの乱」の続きの解説一覧

フメリニツキーの乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 21:23 UTC 版)

トハイ・ベイ」の記事における「フメリニツキーの乱」の解説

1648年にフメリニツキーの乱が起こると、3月イスラム3世ギレイコサックとのあいだで会合持たれ、オル・カプのトガイ・ベイ率いクリミア・タタール軍によるコサック支援決定された。4月半ばには、トガイ・ベイ主君イスラム3世ギレイの命により2万人からなる部隊率いてムィクィーティンのシーチウクライナ語版)にいるフメリニツキー救援駆けつけた。3000から4000の兵を連れたトガイ・ベイ到着待ち8000からなる同盟軍シーチから出陣したトガイ・ベイ率いクリミア・タタール騎馬隊1648年4月から5月にかけて、フメリニツキー率いコサック軍と共にジョーウチ・ヴォーディの戦い共和国軍破った同盟軍はすぐに北上しコールスニの戦いウクライナ語版)ではマクスィム・クルィヴォニースの軍が敵の背面急襲して戦端開きトガイ・ベイの軍はすぐにこれに続いたコールスニの戦い制した同盟軍西進一方トガイ・ベイハン兄弟でありハン国第二位地位のカルガイ(トルコ語版)であったクリム・ギレイと共にリヴィウザモシチ包囲に参陣した同盟軍1648年9月から10月にかけて西ウクライナウクライナ語版)最大の都市リヴィウ包囲して大枚代償金を獲得した同年12月にはザモシチ包囲して陥落寸前まで持ち込み共和国政府大幅に譲歩させた休戦協定を結ばせた。 1651年6月始まった共和国との決戦、ベレステーチュコの戦いウクライナ語版)で負傷し、これが致命傷となったフメリニツキー第一盟友であったトガイ・ベイのほかにもカルガイのクルム・ギレイが戦死ハンであるイスラム3世ギレイ負傷し共和国軍熾烈な砲撃によって大損害を被ったクリミア・タタール軍は総崩れとなったタタール軍の撤収驚いたフメリニツキーはこれを留めようとタタール陣営馳せつけたが、逆に捕らえられてしまった。司令官の突然の失踪によりコサック軍混乱に陥り、この決戦手痛い敗北喫することになった同時代人のミコワイ・イェミョウォフスキ(ポーランド語版)によればトガイ・ベイはベレステーチュコの戦い以前ザモシチ包囲中に死亡したとする。しかし、今日研究者の間では、トガイ・ベイはベレステーチュコの戦いで落命したというのが一般的な見解である。一連の戦い題材にしたクリミア・タタール叙事詩でも、トガイ・ベイの死はベレステーチュコの戦い設定されている。

※この「フメリニツキーの乱」の解説は、「トハイ・ベイ」の解説の一部です。
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