ポーランド・リトアニア・ベラルーシ
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「ロシア帝国の歴史」の記事における「ポーランド・リトアニア・ベラルーシ」の解説
詳細は「ポーランド分割」を参照 1697年にポーランド・リトアニア国王に選出されたアウグスト2世はスウェーデンに奪われていたリヴォニアを奪回すべくデンマークそしてロシアと北方同盟を結んで大北方戦争(1700年 - 1721年)を開戦するが、ポーランド・リトアニア共和国はカール12世率いるスウェーデン軍に蹂躙されて国土は甚大な被害を蒙り、最終的に戦争には勝利したものの、何ら得るものがなく終わっただけでなく、国王とシュラフタ(貴族階級)との対立に乗ぜられてロシアの影響力が強まる結果となった。1733年にアウグスト2世が没するとマグナート(大貴族)の派閥対立が列強の干渉を招いてポーランド継承戦争(1733年-1735年)を引き起こした。その後もリベルム・ヴェト(自由拒否権)の濫用によってポーランド国会(セイム)は麻痺化していた。 1763年に国王アウグスト3世が死去すると、エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は国王選挙に干渉して元愛人のスタニスワフ・アウグストを選出させたが、ロシアの意に反して積極的な国政改革を試みたため、改革反対派を利用して屈服させた。ロシアの内政干渉に反対するバール連盟の蜂起が起こると軍事介入を行い、1772年にプロイセン、オーストリアそしてロシアによる第一次分割が実施され、ロシアは現在のベラルーシ東部にあたる西ドヴィナ川北東地とドニエプル川上流を併合、ロシアによる保護国体制が成立する。 スタニスワフ・アウグストはなおも国政改革継続を志していたが、ロシアがオスマン帝国そしてスウェーデンとの戦争に忙殺されるようになるとプロイセンと結んだ反国王派が支配する国会が権力を掌握した(四年国会)。1791年、国会の改革派と国王の協力が成立して近代的な成文憲法である5月3日憲法を制定するが、ロシアは改革によって既得権益を失う保守派にタルゴヴィツァ連盟を結成させて軍事介入を行い、改革を粉砕した。1793年にロシアとプロイセンによる第二次分割が実施され、北ドヴィナ川からドニエストル川の間の広大な地域(ベラルーシ中部と右岸ウクラナイ)がロシアに併合された。翌1794年に発生したコシチュシュコ将軍が指導する武装蜂起が鎮圧されると列強国は第三次分割を行い、独立したポーランド国家は消滅した。 18世紀のポーランド分割でロシア帝国が獲得した領土は現在のリトアニアの全土、ラトビア南部(クールラント)、ベラルーシ全土そしてウクライナの西部(右岸ウクライナ)にあたる。
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