プレジデント・ハリソンとダラー・ライン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:17 UTC 版)
「勝鬨丸」の記事における「プレジデント・ハリソンとダラー・ライン」の解説
プレジデント・ハリソンはヴォルヴァリン・ステート(Wolverine State)として1921年1月に竣工。「ヴォルヴァリン・ステート」はミシガン州のニックネームである。ヴォルヴァリン・ステート以下7隻の502型は、USSB は7隻の運航を民間のパシフィック・メイル社に委託した。この頃、7隻の船名がすべて大統領の名前に改められた。ヴォルヴァリン・ステートはプレジデント・ハリソンに改名され、姉妹船とともにパシフィック・メイル社のサンフランシスコ・コルカタ線に就航。しかし、不況で航路はすぐさま閉鎖となった。 当時、アメリカと極東を結ぶ航路を持つ船会社のうち、アメリカに於いては材木商出身のロバート・ダラー(1844年 - 1932年)とその家族が率いるダラー・ラインがライバルの船会社を次々と手中に収めて席巻しつつあった。パシフィック・メイル社もダラーの支配下となり、1925年に吸収された。パシフィック・メイル社を手中に収める前、ダラーも含めたアメリカ海運業界の一大関心事は世界一周航路の開設であった。アメリカ東海岸からパナマ運河を経由してアメリカ西海岸、アメリカ西海岸から極東、極東からヨーロッパへの物流は増加傾向にあり、有望株と見られていた。ダラーも世界一周航路への参入を計画していたが、参入条件として、航路閉鎖によりだぶついていた502型7隻を安値で購入することを挙げていた。ダラー一族のスタンレー・ダラーが USSB との折衝役となり、1923年に1隻あたり60万ドルの値段でプレジデント・ハリソンを含む502型全てを購入した。ダラー・ラインでは、この年に購入船を用いて世界一周航路の試験航海を行い、本格就航に備えた。 1924年1月5日、プレジデント・ハリソンはダラー・ラインの西回り世界一周航路の第一船としてサンフランシスコを出港した。 ダラー・ラインの西回り世界一周航路の経由地 ホノルル、横浜、神戸、上海、香港、マニラ、シンガポール、ペナン、コロンボ、スエズ、ポートサイド、アレクサンドリア、ナポリ、ジェノヴァ、マルセイユ、ボストン、ニューヨーク、ハバナ、バルボア、ロサンゼルス。 プレジデント・ハリソンは106日かけてサンフランシスコに帰ってきた。この航路は東海岸から西海岸への船客、アメリカから極東への貨物、極東から欧米への重要貨物の往来により、初年度こそ赤字だったが、次の年度から潤った。極東・欧米間の輸送では特にカシューナッツやラテックス、砂糖などの輸送が利益を上げた。ニューヨークへの輸送日数も1ヶ月早くなり、ダラー・ラインはスケジュールの厳守も相まって会社全体の評判も高まった。 1930年ごろ、プレジデント・ハリソンなど4隻の上部構造が改装され、船橋と客室フロアを分け隔てていた貨物ハッチは一等客室の増設にあてられ、すっきりとした外観になった。しかし、この改造資金は USSB から借金したものだった。また、1929年に始まった世界恐慌の波が、事業を急拡大しすぎて放漫経営に陥りつつあったダラー・ラインを直撃しつつあった。事業の急拡大を懸念していたロバート・ダラーが1932年に亡くなると会社の屋台骨は大いに揺らぎ、経営不安が一気に表面化した。資金繰りがままならず、借金返済を何度の猶予する有様で、そのような状態にもかかわらず、会社の重役には高額の給与が与えられていた。ついには保険金で会社の資金をやりくりするという荒業まで飛び出したが、焼け石に水だった。1937年12月11日には、虎の子の新鋭貨客船プレジデント・フーヴァー(SS President Hoover、21,936トン)が火焼島で座礁沈没。これは、もはや老朽船代替の新鋭船を建造する資金すら底を突きかけていたダラー・ラインに止めを刺したようなものだった。1938年6月、スタンレー・ダラーは万策尽きてダラー・ラインの運航停止を表明。ダラー・ラインの株を政府に貸し、海運事業から去って元の材木商に戻った。プレジデント・ハリソンを含むダラー・ラインの船隊は、政府と米国海事委員会主体で設立されたアメリカン・プレジデント・ラインに移籍。ファンネルマークも「$」から「アメリカン・イーグル」に変更となった。 1941年11月末、プレジデント・ハリソンはマニラと香港でドック入りし、その際に軍隊輸送船に改装された。この後、僚船プレジデント・マディスン(SS President Madison)とともに上海に入港し、同地のアメリカ海兵隊をフィリピンに移動させる任務に就いた。マニラで海兵隊を上陸させた後、プレジデント・ハリソンは12月5日にマニラを出港。北京、天津方面のアメリカ海兵隊引揚げのため秦皇島に向かった。当時、日米関係は危機的状況にあり、プレジデント・ハリソンのオーレル・ピアソン船長は、万が一の際にはオーストラリアへの脱出か、大圏コースからのアメリカ帰還を考えていた。この時点で、プレジデント・ハリソンはドル紙幣とドル貨幣、ペソ紙幣、香港紙幣、小切手、それに託送品の水飴が積まれていた。
※この「プレジデント・ハリソンとダラー・ライン」の解説は、「勝鬨丸」の解説の一部です。
「プレジデント・ハリソンとダラー・ライン」を含む「勝鬨丸」の記事については、「勝鬨丸」の概要を参照ください。
- プレジデント・ハリソンとダラー・ラインのページへのリンク