ブリューニング内閣崩壊とは? わかりやすく解説

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ブリューニング内閣崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:46 UTC 版)

ヴァイマル共和政」の記事における「ブリューニング内閣崩壊」の解説

ヴェルサイユ体制破棄訴えナチス躍進は、ドイツ対す諸外国信用一気低下させた。このため海外資本引き揚げはますます顕著となり、1930年末には失業者400万人超えたこのような情勢下でブリューニングの増税政策はますます支持されなくなっていった。 ブリューニングは外交上の成果上げるため、1931年3月23日オーストリア関税同盟結んだ(独墺関税同盟事件)。しかし、1922年オーストリア国際連盟仲介による経済援助各国から受けた際に、オーストリア経済的独立を脅かすような取り決めを他の一国と結ぶことを禁ずる規定含んだ条約各国結んでおり、それに抵触する反発する国が現れた。実際には、この関税同盟オーストリア結んだ条約違反であると言い切れるわけではなかったが、オーストリア融資する国としては最大だったフランス大い気分害したフランスは、関税同盟についてドイツ・オーストリア抗議融資引き揚げ恐れたオーストリア関税同盟破棄考えざるを得なかった。そして実際にフランスオーストリアから資本引き揚げたため、5月8日にはオーストリア最大銀行クレジット・アンシュタルト(ドイツ語版)が破綻した。同銀行ヨーロッパ全土取引をしていたため、この銀行破綻ドイツオーストリアのみならずヨーロッパ全土経済打撃与えた世界恐慌)。賠償支払いはもはや不可能であり、アメリカ大統領ハーバート・フーヴァー6月19日西欧諸国ドイツ対す賠償債務支払い一年間猶予する宣言したフーヴァーモラトリアム)。しかしこの発表によってもドイツ経済悪化止まらず企業銀行破綻相次いだ。また関税同盟9月常設国際司法裁判所によって違法判断されたため成立しなかった。 1931年10月3日、ユリウス・クルティウス(英語版外相は独墺関税同盟失敗により引責辞任ルール工業界も国民党に対してブリューニング内閣信任撤回するよう圧力をかけ始め内閣改造大統領要求する動き出てきた。ブリューニングは大統領辞任申し出たヒンデンブルクは、保守色を強めるとの条件付けて組閣をブリューニングに再委任、「議会独立に」内閣作る事も改め指示し大統領内閣としての性格強まった10月10日第2次ブリューニング内閣成立した。しかし、政権から国民党離脱したので国会基盤は更に弱くなり、ブリューニングが首相外相を、グレーナーが国防相内相兼務する厳しい組閣だった。また実際に国会支持が全く得られなく、内閣への信任票が125に対して不信任が577票もあるという状態だった。結果としてブリューニング内閣大統領支持だけが頼りという隘路入っていった。この頃から国会で議決されない大統領令による立法増加し1931年には大統領緊急令の数が国会採択立法の数を上回り1932年には大統領緊急令60対し議会での立法はわずか5となった10月11日アルフレート・フーゲンベルク主唱ドイツ国家人民党ナチス鉄兜団右派による反ブリューニング戦線決起集会開かれた。この時の極右団体による合同集会は後にハルツブルク戦線との名前で記憶されるうになる会場には旧帝皇族ゼークトシャハトらが集まり盛会となったが、このハルツブルク戦線ヒトラー乗り気でなかったために実際影響力乏しいものであったナチス単独での政権掌握狙っており、突撃隊活発にテロ活動行ったこの後ブリューニングは経済悪化理由再度賠償問題解決のための交渉行い1932年1月スイスローザンヌ会議を開く事が合意された。しかし、英仏都合会議半年延期されている間にブリューニングは失脚してしまいローザンヌ会議ドイツ有利な条件賠償問題解決する道は水泡に帰した1932年春に大統領の任期切れが迫っていた。ヒンデンブルク選挙戦を厭って信任投票による再選願っていたが、結局選挙戦が行われる事になった1932年ドイツ大統領選挙)。社会民主党共和派大統領候補としてヒンデンブルク推すことに決定一方右翼のフーゲンベルクは鉄兜団団長のデュースベルク(選挙戦途中で離脱)を、共産党エルンスト・テールマン推したヒトラードイツ国籍の問題から立候補問題抱えていたが、ヴィルヘルム・フリック仲介によりブラウンシュヴァイク自由州ベルリン駐在公使館参事官になるという形式公務員になった者にドイツ国籍を付与する)を取ってぎりぎりドイツ国籍を取得しドイツ語版)、同じく大統領選臨んだ3月13日行われた一次投票ヒンデンブルク最多得票獲得したものの、わずか0.4%の不足で過半数には及ばなかった。4月10日二次投票再選確定したものの、2位となったヒトラー影響力拡大は誰の眼にも明らかとなった。この選挙戦はかつてヒンデンブルク支持した右派ヒトラー支持回りヴァイマル連合はじめとするヒンデンブルク派だった政党ヒンデンブルク支持するという、前回大統領選挙と逆の構図となったこの頃ヒンデンブルクはかなり老衰しており、側近シュライヒャー、ハンマーシュタイン、官房長官オットー・マイスナー農相オルゲンブルク=ヤヌシャウ(英語版)、息子オスカー・フォン・ヒンデンブルクら)によって簡単に動かされるようになっていた。 4月13日国防相内相となっていたヴィルヘルム・グレーナーは、突撃隊親衛隊禁止命令出した。しかしナチスとの連携模索するシュライヒャー策動でグレーナーは失脚した国防相となったシュライヒャーブリューニング内閣倒して右派独裁による新政権樹立目指し、さらに策動開始した突撃隊禁止命令解除材料としてヒトラー交渉し大統領にはブリューニング政権進め東部救済政策ユンカー抑圧であると吹き込んだ5月29日には、ヒンデンブルク大統領がブリューニングに対して右翼政府形成」「労働組合指導者との接触禁止」「農業ボルシェヴィズム中止」を申し渡し事実上退陣要求した窮地追い込まれたブリューニングは5月30日東部救済政策の失敗理由辞職した。 ブリューニングに対す評価錯綜している。ブリューニング自身生前自身政治体験についてほとんど発言しなかったことから、かつてはワイマール体制最後擁護者という評価から、ナチス政権誕生に至る重要なステップ準備したというものまで幅広かった。しかし死後回想録出版されナチスには抵抗したもののブリューニングは権威主義的帝政復活論者だったことがわかっている。したがって林健太郎のような、ブリューニングを共和制崩壊阻止しようとした最後闘志とみなす評価は、時代遅れになっている

※この「ブリューニング内閣崩壊」の解説は、「ヴァイマル共和政」の解説の一部です。
「ブリューニング内閣崩壊」を含む「ヴァイマル共和政」の記事については、「ヴァイマル共和政」の概要を参照ください。

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