ファーティマ朝とエジプト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)
「エジプトの歴史」の記事における「ファーティマ朝とエジプト」の解説
エジプトを征服したファーティマ朝はさらに東西へと勢力を広げ、第5代カリフのアブー=マンスール・ニザール・アル=アズィーズ(英語版)の時代には金曜礼拝のフトゥバ(説教)において彼の名前を唱える地域は大西洋岸からモロッコとシリア、ヒジャーズ(アラビア半島西南部)、さらに一度だけとはいえ北部イラクのモースルにまで広がり、名目上はこの全域にファーティマ朝の支配が及んだ。 イスマーイール派政権であったファーティマ朝は成立当初、イフリーキーヤにおいてスンナ派への激しい攻撃を行い、数多くの亡命者や死者を出すなどしていたが、エジプトの征服に際してはシーア派の礼拝形式の導入を行うなどはしたものの、寛容な方針であたり、スンナ派住民の強制的な改宗などは行われなかった。カリフ・ハーキム(在位:996年-1021年)の時代に行われた過酷な弾圧こそ有名であるものの、キリスト教徒やユダヤ教徒はイスラーム期に入って以来かつてなかった程の寛容さを享受し、ファーティマ朝時代は非ムスリムの黄金時代であったともされる。ワズィール(宰相)を始めとした政府高官職にキリスト教徒が任命されることも珍しくなく、キリスト教やユダヤ教の施設に支援が行われ、カリフがそれを訪れることもあった。商工業や美術に対する統制も緩く、ファーティマ朝期のエジプトは経済的に繁栄し、工芸が栄えた。学術研究も盛んになり、アズィーズの時代に建設されたアズハル・モスク付属のマドラサ(学院)はその後エジプトを代表する教育機関へと発展した。これは今日でもアズハル大学として存続している。そして、ハーキムの時代には、シーア派の教義を普及させるという目的を帯びて、「学芸/英知の館」(ダール・アル=イルム)と呼ばれる学術施設と基金が設立され、天文学や光学が発達した。 ハーキムの死後、王朝の実権は次第にワズィールたちの手に移るようになり、またベルベル人、テュルク人(トルコ人)、アルメニア人、ユダヤ教徒、キリスト教徒、黒人(スーダン人)など様々な勢力が複雑な権力闘争を繰り広げ、政治は不安定化した。1073年にワズィールとして抜擢されたアルメニア人バドル・アル=ジャマーリ(英語版)がアルメニア人軍団(アル=ジュユースィーヤ、al-juyūshiyya)の勢力を背景に一時的な混乱の収拾に成功したものの、その死後以降は各派閥に推されたワズィールたちの間で絶えることのない争いが続けられた。 同時に、東方のイラクでは新たな事態が発生していた。それは中央アジアから到来したセルジューク族(サルジューク)の活動である。セルジューク族の首長トゥグリル・ベクは1055年にバグダードに入場し、現地を支配下に置いていたブワイフ朝の勢力を放逐してアッバース朝のカリフを保護下に置いた。その後、ブワイフ朝のバグダード駐留軍司令官であったバサーシーリが1058年にバグダードを奪還し、アッバース朝カリフのカーイムに強要してファーティマ朝のカリフに全ての権利とカリフの聖器を譲渡するという文書に調印させるという一コマがあったが、間もなくトゥグリル・ベクがバグダードを再占領し、11世紀後半にはセルジューク族がシリアとヒジャーズ地方をファーティマ朝から奪取した。 一連の内憂外患に幼少のカリフの即位が加わり、ファーティマ朝のカリフ権力は失墜した。カリフ・ハーフィズ(在位:1130年-1149年)が死没した頃には、カリフの支配は宮殿内部にしか及ばなくなっていた。そして権力を争うワズィールの地位も繰り返される暗殺によって目まぐるしく交代し続けていた。当時のファーティマ朝の宮廷で過ごした人物は渦巻く陰謀と嫉妬、権力争いの激しさを伝えている。
※この「ファーティマ朝とエジプト」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「ファーティマ朝とエジプト」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。
- ファーティマ朝とエジプトのページへのリンク