ファーティマ朝の書記官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/14 08:00 UTC 版)
「アル=ファーディル」の記事における「ファーティマ朝の書記官」の解説
生誕地は当時ファーティマ朝の領地であったパレスチナのアスカロン。生家であるバイサーニー家(ファーディルの父親がバイサーンの街のカーディーを務めており、それが家名となった)はアラブの名族ラフム族の一員であり、また代々カーディーを輩出していた。彼もその伝統に則りカーディーとなったと思われる。 家庭の事情でエジプトへ出た彼は、当地で父親を亡くした後、父の知り合いを頼ってアレクサンドリアで働く。しばらく後、イブン・ルッズィークが彼に目をつけてアレクサンドリアからカイロに召し出し、秘書に任じた。ファーティマ朝の宰相シャーワルの秘書、シャーワル殺害後はエジプトへ乗り込んでいたシールクーフの秘書を経て、サラーフッディーンの秘書として働くこととなる。サラーフッディーンのファーティマ朝宰相就任時、ファーティマ朝カリフの権力は無きに等しい状態になっていたので、事実上、サラーフッディーンがスルターン、ファーディルが宰相であった。
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